私は、大学時代に、なぜか、ミシェルフーコー系の本をよく読んでいた。やや難解なのだけど、英語で読んでいた。日本語で読むよりはわかりやすかった(原書はフランス語)。2011年の今、医学などに肩を並べるほど、大切な分野として、哲学、社会学、人類学、文学が大切になってくるのではないか、、、という確信に満ちた予感がある。

というのは、私たちが、ついに日本という文化を理解し、人類の文化を理解するために、そういういわゆる文系分野が役に立つ時代が来たのではないかと思うからだ。

日本の活性化のためには、人的資本(技能、スキル)のレベルを上げることが大切だが、その技能をマスターするための、「分野(例、学問の領域)」に縄張りがあり、その分野の門番のような人達によってかたくガードされているというのが問題だ。

英語喉は、日本人にこの事実、縄張り的知識国家日本を意識的に認識することの突破口になるだろう。

どういうことかというと、英語喉は、音声学という領域の外から来たという点が面白い。私のことではない。ジーナは、言語学者でなくて、アーティストである。お父さんもお母さんも、社交ダンスを極めた人で、ジーナもダンスがセミプロなみである。妹は、プロの音楽家で声楽家でピアニストだ。どの点をとっても、何か課題を与えられ、それを瞬時に理解し、体得し、実践しないといけない分野である。結果を出さないといけない分野である。

結果を出さないといけないから、私が真顔でジーナに、「どうやったらネイティブと同じ発音になるのか」と5年ぐらい前に問うたときに、それをマジで考えて、解決してしまったのである。

つまり、英語の音声に本当の体系が、アーティストの手によって明らかになったということになる。その分野の外から現れたアプローチが、その分野の課題を解決してしまったのだ。いや、言い換えよう。日本人の英語がどうしたらネイティブと同じになるかというリサーチクエスチョンさえ、音声学者の死角になっていたのだ。

どうしたらネイティブと同じになるかという問いは、あまりにも根本的すぎて問われていなかったのである。

逆に、外国人が英語の音について書いていることを英語で読み、それを日本国内に紹介するというのが音声学の分野の主流となっている(が、ちなみに、社会学でも同じ傾向がある)。大半の人は英語が読めないので、紹介するというのは、それなりに意味があるかもしれない。私にとってはそもそも、直接英語が読めるので、メリットがない。

学問や、その他の「領域」が縄張りのようになって、真とされている知識によって独占されていると、真実が見えなくなってくる。これが問題だ。

さて、英語喉は、他の分野にも少しづつ刺激をあたえていくだろう。歌手、ボイストレーナーの菅原里奈先生が、英語喉の原理をいち早く理解され、たくさんの日本人の歌唱指導の経験を元に、新しい方向に、歌唱の、芸能の分野を広げてらっしゃる。音楽、芸能は、結果が重要視させる世界である(と信じたい)。菅原先生たちの製作した動画を見て、感動しない人がいるだろうか?

まだまだ英語喉は、他の分野に広がるだろう。聾唖の人達が音の区別をするうえで、英語喉が有効であることは、私は確信を持っている。しかし、発音の分野でそうであるように、ジーナと私が二人でまずはアメリカにおいて開拓しなければならないかという予感がしている。というのは、スピーチセラピーの分野も、アメリカ、日本の両方において、縄張りの門番の人がいると思うからだ。言説戦争に突入する可能性があるから、私は、この件に関しては水面下にいようと思う。

いや、もしかしたら、口発音の知識と喉発音の知識が合体することで、史上最強の、マジンンガーZ級の進展につながるかもしれない。口発音は、音の最終調整としては有効だからである(大げさにやらないかぎり)。

学際的アプローチが大切なのだ。しかし、学問だけではない。英語喉がアーティストによって発見されたように、さまざまな領域、芸術や生活関連の分野の色々な人達が知識を出し合うことで、日本の人的資本を向上させることができる。

大切なのは、結果を出すということだ。

だから英語教材であれば、著者自身が英語が喋れないといけないし、その喋っている姿を動画などで公開するべきである。このマルチメディアの時代、それをせずに、遠くから、文法が大切だとか、ぺらぺら喋れても中身のない人はダメとか、言われても全然説得力を持たない。 文法は、頭を鍛えるとか、深い思考を可能にすると多くの学者はいうが、それではそのことを研究によって証明しているかというと、査読付きの学術論文が見当たらない。

これまでなぜ結果が出しにくかったのかということを理解するために、日本の知識社会が縄張り化し、外に対してオープンでないという点がある。その点を理解するために、今後、哲学、社会学、人類学などのアプローチが有効になると思われる。歴史もそうだ。浮世絵をじっくり観察したり、古事記を読んだりして、現在の文化と当時の文化の違いおよび共通点をさぐる。そうすることで我々の文化を確実に理解する。

これらの学問分野の壁もとりこわすべきで、大学などで、1年時から学部を選ばせるという制度はとりやめないといけない。縄張り制度を温存する装置だと思う。高校時代に、情報の少ないなか学部を選び、進学すると、その学部の先生の家来になりにいくようなものだ。一旦、入ると学部を変えにくいからだ。勉強してみて、自由に専門を選んでいくという制度が必要だろう。

学問でなくてもよい。高校生がホームステイをするなら、目と喉を開いて、相手の文化を観察する。

さて、ミシェルフーコーの話からはじめたこのエッセイであるが、フーコーは監獄の歴史だとか、精神医学の歴史だとかを、言説物として扱ったひとで、歴史学に新しいアプローチを導いた人だ。あいにく読みにくい。私は、最相葉月氏の「絶対音感」が日本における言説研究の最初だ勝手に思っているので、そちらを読むことを薦めたい。文化とは何かを理解するために必読の書である。

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