ちょっと思いつきで書いているので、右往左往する。
言説、言説と言っているが、もともとはミシェルフーコーの用語だ。大学時代によく読んだ。代表的なものとして、DISCIPLINE&PUNISHというのがある。これは熱心に読んだことを覚えている。何が悪いか、何が罪かという概念だけでなく、処罰の方法も時代によって変わってくる。そして近代の処罰の方法は、医学的なパラダイムの変化もあって(精神科など)、変わったが、それが確実にベストというわけではない(個人の自由を奪う、新しい形のソーシャルコントロールが登場したというだけだ)というような内容だった(と思う、、、読んだのは20年前)。
特に卒業後、英語教師をやり、多くの生徒を効率的にコントロールしなければいけない立場になり、言説形成とか実践ということの意義を深くしることができた。いかに、生徒を黙らすかとか、そういうテクニックの集積があり、それは「語られたたこと」ではないが、フーコー的な意味でも言説戦略の一部と理解している。
フーコー自体の諸作はなかなか読むのが難しかったが、特にエドワードサイードのオリエンタリズムに感銘を受けた。フーコーの言説分析を具体的に実践しているように思われたからだ。サイードは、いかに、ヨーロッパ人のもつ中東のイメージが、書かれたことや伝えられたことによって形成されていったかということを分析した。あ、思い出したが、似たようなことで、WAR WITHOUT MERCYというジョンダワー氏の本もいかに対戦中に日本人のイメージが形成されていったかというようなことが書いてあった。
言説分析の一番面白いところが、昔からあると思われている考え方が、実は近代になって発生したのだ、、、などということを暴くところである。
私達のすること、やること、語ること(語り方?)も実は歴史的な構築物である。古いということではなくて、例えば昔は無かったのに明治維新のころから起こったとか、そういうことを突き止めるのが言説分析になるだろう。とくに明治維新のころからの富国強兵のスローガンがいかに今でも生きているか、そしてそれどころが、あたかも大昔から存在したように自明のものとされているか、など面白いトピックはあると思う。
フーコーは大昔の人が以下に性を語ったかというようなテーマで本を書いている。「いかに語ったか、語られていたか」、つまり言説を分析しているのだ。
あ、あと、フーコーには言説の切れ目というような考え方がある。英語喉によってパラダイムに裂け目ができたわけだが、それが突破口的に全開することがある。シラブル、音節という考え方はこれまで全く考えられてこなかった概念である。辞書に載っているのにもかかわらず誰も注目していなかった。実はそれがものすごく大切なのだということを英語喉が示した。これは私が示したわけではなくて、共著者でネイティブのジーナさんが発見した。
そしてその音節の読むかたは、例外が生じないほどの正確さをもって英語喉の後半に描写されている。なぜ例外がないのか。ネイティブはレイジーだから、数の限られた法則でしか喋っていないのである。法則が多すぎるとネイティブでも英語が喋れないからである。これは私が発見したわけではない。私はネイティブの共著者の言っていることを日本語にしただけだ。
ネイティブ共著者は恐ろしいほどの正確さをもって英語の秘密を暴いていった。
この言説の切れ目、そしてパラダイムシフトによって面白くなるのが、これまで語られてきたことを客観的に考えることだ。
日本の韓国でしか言われていないことがたくさんある。
イントネーションが大切だとか、ネイティブの真似をする必要がないとか。
よく考えると、当たり前だが、イントネーションは適当でも英語は通じる。日本語でもそうだ。ふざけて、アホのようなイントネーションで日本語を喋っても通じる。ロボットのように平坦に喋っても通じるではないか。
これらの言説群が今後どのように浄化されていくだろうか。
言説というのは、正確には、語りかたということができるだろう。ある場所にしか存在しない語り方をさして言説という。その言説がある社会において、真ととられているのは、言説形成が起こっているからだ。色んな人が、それが真であるとよってたかって語っている様子である。
「イントネーションが大切だ」という言い方は日本と韓国でしか聞かれない。そういう意味でこれは言説である。
「ネイティブの真似をする必要がない。」というのも同じだ。
そういう言い方があるかないかということである。もちろん、例えばスペイン人にそういう質問をすれば、そうですね、というかもしれないが、そういうことではない。
日本と韓国以外では、そういう発想、語り方がないということだ。