喉
教科書音声学パラダイムの盲点 言説のほころび 破れ目
従来のパラダイムには、たくさんの盲点があるが、少し挙げて置く。盲点といっても、普通の意味の盲点ではない。なぜか、ブラックホールのような言説のほころび?破れ目のようなものがあるのだが、誰も近寄りたくないという感じのものだ。 二重母音でアイとされている音があるが、そのアが、その他のアのどれと同じであるかを誰も知らない。これは面白い。たまたまアイを発音記号で書くと、そのアの書き方が他のアの書き方とフォントが違う。だからどんなに読むのか従来のパラダイムでは説明がつかない。だから誰も触れないのである。 たまたま西洋人の言語学者もどのような発音をするのかを説明していないため(忘れたのだろうか?)、誰も触れない項目であり、誰も聞いてはいけないのである。 教科書音声学パラダイムでは西洋人がなんらかの説明をしていて始めて、それが正しい説明として紹介される。なぜ西洋人がまず書いていないといけないかというと、いわゆる「学問」というのは、普通の日本人が読めては学問にならないのである。外国語で書いてあり、それを訳す、、、ということがあって、初めて教科書音声学は知の構築物としてLEGITIMATEとされる。外国人が外国語で書いていないと、箔がつかないのである。 (ただ、外国人が書いているとはいえ、ほとんどは学部生が入門用に読む教科書である。西洋のアカデミアでは、普通の研究者は教科書を書かないのが普通なのだが。小さな大学の先生が教育用にほそぼそと書くのが教科書である。教科書は研究書ではない。単なる入門書である。私の専門は社会学だが、社会学の教科書を読んだことがない。ああいうのは、大学生が1年のときとかに読むものだ。) 喉パラダイムではアイのアは単にアであり、HOTのアと同じアである。喉の上のほうで発音することで、スムーズにつなげるとよい。 あ、もう一つ言説のほころびについて触れておく。オに値する発音記号が2つあるのだが、違いが誰にもわからないようだ。実際は喉パラダイム(正しい方法)はAu_ (例 CAUGHT)とO(例 COLD)である。不思議と、従来のパラダイムではCOLDのOをOUとし、CAUGHTのほうは伸ばすような音としているが、全くの誤りである。また、実際に、この音の違いを従来のパラダイムで示せる人が存在しない。この話になると、アメリカ英語の変種の話になってしまうのも不思議な現象だ。 アメリカでも地域によって、発音が異なりますから、日本人が区別する必要がありません、というような言説戦略(はっきりそう言うわけではない)によってお茶が濁される。
天満さんラジオ出演!
天満さんが、11月9日(日)の午前10時30分から午後12時30分に "TOEIC Blitz Radio"というネットラジオに出演されます。 聞き方などの詳しいことはこちら。 http://toeicblog.blog22.fc2.com/blog-entry-563.html 英語喉の話もあるそうです。 天満さん、がんばってください。コピーイングの話もでますか? あれは練習法としていけていると思いますよ。
言説形成 そして突破口
ちょっと思いつきで書いているので、右往左往する。 言説、言説と言っているが、もともとはミシェルフーコーの用語だ。大学時代によく読んだ。代表的なものとして、DISCIPLINE&PUNISHというのがある。これは熱心に読んだことを覚えている。何が悪いか、何が罪かという概念だけでなく、処罰の方法も時代によって変わってくる。そして近代の処罰の方法は、医学的なパラダイムの変化もあって(精神科など)、変わったが、それが確実にベストというわけではない(個人の自由を奪う、新しい形のソーシャルコントロールが登場したというだけだ)というような内容だった(と思う、、、読んだのは20年前)。 特に卒業後、英語教師をやり、多くの生徒を効率的にコントロールしなければいけない立場になり、言説形成とか実践ということの意義を深くしることができた。いかに、生徒を黙らすかとか、そういうテクニックの集積があり、それは「語られたたこと」ではないが、フーコー的な意味でも言説戦略の一部と理解している。 フーコー自体の諸作はなかなか読むのが難しかったが、特にエドワードサイードのオリエンタリズムに感銘を受けた。フーコーの言説分析を具体的に実践しているように思われたからだ。サイードは、いかに、ヨーロッパ人のもつ中東のイメージが、書かれたことや伝えられたことによって形成されていったかということを分析した。あ、思い出したが、似たようなことで、WAR WITHOUT MERCYというジョンダワー氏の本もいかに対戦中に日本人のイメージが形成されていったかというようなことが書いてあった。 言説分析の一番面白いところが、昔からあると思われている考え方が、実は近代になって発生したのだ、、、などということを暴くところである。 私達のすること、やること、語ること(語り方?)も実は歴史的な構築物である。古いということではなくて、例えば昔は無かったのに明治維新のころから起こったとか、そういうことを突き止めるのが言説分析になるだろう。とくに明治維新のころからの富国強兵のスローガンがいかに今でも生きているか、そしてそれどころが、あたかも大昔から存在したように自明のものとされているか、など面白いトピックはあると思う。 フーコーは大昔の人が以下に性を語ったかというようなテーマで本を書いている。「いかに語ったか、語られていたか」、つまり言説を分析しているのだ。 あ、あと、フーコーには言説の切れ目というような考え方がある。英語喉によってパラダイムに裂け目ができたわけだが、それが突破口的に全開することがある。シラブル、音節という考え方はこれまで全く考えられてこなかった概念である。辞書に載っているのにもかかわらず誰も注目していなかった。実はそれがものすごく大切なのだということを英語喉が示した。これは私が示したわけではなくて、共著者でネイティブのジーナさんが発見した。 そしてその音節の読むかたは、例外が生じないほどの正確さをもって英語喉の後半に描写されている。なぜ例外がないのか。ネイティブはレイジーだから、数の限られた法則でしか喋っていないのである。法則が多すぎるとネイティブでも英語が喋れないからである。これは私が発見したわけではない。私はネイティブの共著者の言っていることを日本語にしただけだ。 ネイティブ共著者は恐ろしいほどの正確さをもって英語の秘密を暴いていった。 この言説の切れ目、そしてパラダイムシフトによって面白くなるのが、これまで語られてきたことを客観的に考えることだ。 日本の韓国でしか言われていないことがたくさんある。 イントネーションが大切だとか、ネイティブの真似をする必要がないとか。 よく考えると、当たり前だが、イントネーションは適当でも英語は通じる。日本語でもそうだ。ふざけて、アホのようなイントネーションで日本語を喋っても通じる。ロボットのように平坦に喋っても通じるではないか。 これらの言説群が今後どのように浄化されていくだろうか。 言説というのは、正確には、語りかたということができるだろう。ある場所にしか存在しない語り方をさして言説という。その言説がある社会において、真ととられているのは、言説形成が起こっているからだ。色んな人が、それが真であるとよってたかって語っている様子である。 「イントネーションが大切だ」という言い方は日本と韓国でしか聞かれない。そういう意味でこれは言説である。 「ネイティブの真似をする必要がない。」というのも同じだ。 そういう言い方があるかないかということである。もちろん、例えばスペイン人にそういう質問をすれば、そうですね、というかもしれないが、そういうことではない。 日本と韓国以外では、そういう発想、語り方がないということだ。