チビ犬、デカ犬

今日はいい話をある人から聞いた。その人の息子の高校卒業式で、元軍人の大将がスピーチをしたとのこと。その軍人の名前はちょっと忘れてしまったが、確か第1次イラク侵攻を指揮したシュワルツコフだったと思う(違ってたらごめん)。  彼は二匹を犬を飼っている。一匹は20パウンドに満たないチビ犬。もう一匹はその10倍ぐらいある大型犬。  どう考えても、大型犬のほうが強いはずなのだが、チビ犬が完全に権力を掌握している、、、らしいのだ。  犬というのは、絶対的に、まずどっちが強いか、どっちがボスかを決定しないと仲良くなれない動物だ。  チビが、でかいのを下においているというのだ。  氏いわく、理由は、犬は鏡をみない、みても理解できないから、、だという。つまり大型犬は、自分がチビよりも、ずっと大きいこと、ずっとたくましいこと、、、などを知らない、、、ということらしいのだ。  さて、この話が科学的に本当なのかは二の次だ。この話には本当に学ぶものがあると感じた。私が勝手に感じているのかもしれないが、私なりの解釈を加えたい(そういう意味で氏がこの話をしたのかどうか知らない)。  我々も、人生を生きるなかで、人の制圧の下に屈してしまうことがある。学校でいじめられたりするだろうし、職場で不法にこき使われたりすることもあるだろう。  なぜ我々は人の権力下にやすやすと入ってしまうのだろう。なぜ不自由に対して打たれ強く、がまんするのだろう。  もしかしたら、我々は犬と同じように鏡を見たことがないのではないだろうか。つまり、自分自身を知らないのではないだろうか。  逆に、権力を身にまとい、いじめにかかる人たちは、そのメカニズム・からくりをよく知っているのではないか。つまり、普通の人たちが、自分を良く知らないということを利用して、他人の自由を奪うのではなかろうか。そして、弱い立場の人間が、自分というものを知らないように、さらに自由を奪うのではなかろうか。  我々が自由を取り戻し、尊厳を持って生きるためには、まず自分自身を鏡で見ることが大切じゃないか。もちろん鏡というのは、比喩的な表現だ。  自分がどんな性格か、どんなことが好きか、どんな子供だったか、などなど。  自分自身を知る、自分自身を理解する。これが自分を守り、自分のために立ち上がるために大切ではないだろうか。  喉は、自分自身のために立ち上がる人たちのために、英語という武器を与える。英語があれば、世界を市場とし、日本にいながらでも、自分を伸ばしていくことができると思う。  そんなことを、チビ犬、デカ犬の話をきいて思った。 

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イギリス人はイギリス人なりにRを発音している

久しぶりに大学時代の友人と話をした。まず電話をして、最初の声を聞いたときに驚いたことがある。   彼が喉で日本語を喋っているのである。電話口から聞こえてきたのは、平らな音ではなく、渋く、立体的な声であった。   彼は留学していたので、英語ができる。当たり前のように英語を喋っていたが、それは当時の私と同じだった。さらに私と同じだったのは彼がギターをやり、そしてロック(洋楽)を聴いて歌っていたということだ。だから、喉発音とか3ビートには、自然に接していた。   喉のことを聞いてもらったが、納得してくれていたようだった。彼はイギリス英語が得意なのだが、驚異的なことがあった。   イギリス英語ではRを発音しない、、、ということを彼が言った。これは事実上は間違いである。イギリス人がRを発音しないのではなく、イギリスのRが微妙でアメリカのRと違うということである。   ところが、彼がその例として、ある単語を発音したとき、、、まあここではCARにしよう、、、そのRの音が、イギリス人と同じで微妙なRだったということだ。   つまり、音声学の人たちが言うことと同じことを彼は言っているにもかかわらず、実演ではイギリス人と同じRを発音しているのである。そのくらいイギリス英語を自然に身につけているのだ。   普通の人がイギリスではRがないと思いこんでいる場合、こんな発音をする。   CA- (―は伸ばす記号、、、つまりカー)   ―(伸ばす記号)は日本語であり、英語にはない、、、という基本的な事実を忘れているのである。   ところが、彼の場合はこうだった。 CAR (RがちょっとHみたい、、、微妙だけど、Rが無いわけではない)。   イギリス人がRを発音しないというのは、アメリカ英語のような強烈なゲップエリア発音のRではない、、、というだけであり、イギリス人はイギリス人なりにRを発音しているのである。   だからこそ、例えばだが、イギリス人にCA(カ)を発音して、長めに伸ばしてくれと頼んだ場合の音と(つまりカー)、CARの発音は違うのである。   ま、とにかく言いたかったことは、この友人は、イギリス人はRは発音しないといいながらも、イギリス人と同じやりかたでRを発音している、、、という事実自体が驚異的だった。   話は変わるが、この友人は非常に才能のある人である。大学時代に自分で曲をつくり、録音し、独自のアルバムを数枚つくり、友人の間に配ってくれていた。そして、その音楽、ロックがものすごく良かった。全部英語だった。   ベルリンの壁の崩壊の前だったのだが、この壁を取り払え、しかし取り払っても何も変わらない、単なるギミックである、、、という曲などは、共産主義崩壊後もグローバリゼーションの中で、新しい富の差などの問題を予測していたかのごとくのテーマを扱っている。   もう一人の友人は、「私、最近、あれしか聞いてへんわ」と言っていたが、私も結構聞いた。   ギターもすごくできたのだが、よく即興のジャムをしたものだ。当時はあまり考えたことはなく、当たり前と思っていたのだが、めちゃくちゃギターがうまかった。私のスタイルはヘビメタの「はやびき」だったが、彼の場合は、イギリスのロックっぽいスタイルのギターを弾いていたように思う。   最近、私も、コード進行とか、音楽の記号体系にとらわれないプレイができるようになってきた。弾いていて、コードだとか、キーだとか、全く考えないスタイルだ。私はソロではそれが以前からできたが、伴奏などではまだコード進行を考えながら弾いていた。彼は、当時から、コード進行とかの記号体系にとらわれないプレイをしていたような気がする。    

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練習、暗記、準備の怖さ

我々はむやみにがんばりすぎていないだろうか。結局のところ、我々が(特に大人が)仕事や日常で使っているスキルというのは、仕事をしながら、経験のなかではぐくんだものが多い。   自動車の運転がまさにこの例だ。教習所で学んだことは1%ぐらいで、99%は体験でうまくなる。弁護士の仕事なども同じらしく、実践で学んでいく。   ところが、我々の学習文化には、あまりにも準備に熱を入れすぎているような気がしてならない。   英語学習がよい例だ。学習のための学習という感じで、実践の学習になっていない。   英語ができる立場から言わせてもらうと、やはり実践をこなさないと英語はうまくならない。とにかく会話を始めてほしい。   従来のやりかたは順番が逆なのだ。準備して準備して、結局、英語をマスターできずに人生を終えるという形である。   じゃなくて、会話を始めるのだ。そしてその会話で、あれ、あの単語、思い出せなかったなあ、こんな表現つかいたかったのになあ、、、とあとで後悔したものを、覚えていくのである。   従来のやりかたは逆になっている。単語、熟語を1000覚え、そして結局、その単語が使える瞬間を待っていたら30年ぐらいたっていた、、、と。   例えば、私は中学のときラジオ講座でLIVE UP TO ONE‘S EXPECTATIONという表現を暗記した。それから20年以上の時がながれたが、一度もその表現を使ったことがないのである。   「頻出単語」という考え方もあまりに甘すぎる。自分に必要な単語から覚えていけばよい。周りを見回して、チェックしてみよう。自分の持ち物の英語が全部言えるだろうか。通勤通学時に、その日起こったことを思い出してみよう。英語で言うとしたら、どんな動詞を使うだろうか。   自分を自分の先生とするのである。   喉や3ビートも自分のなかであみだしていこう。駅の名前など、ネイティブならどう発音するだろうか。あなたの会社の名前、ネイティブならどう発音するだろうか。喉はどうやったらうまくなるだろうか。究極的には自分の体であるから、自分でコントロールするのである。   毎日やらないといけない、、、とかそういうことはいらない。逆に、喉+3ビートがマスターできれば、毎日試してみたくて仕方がない、、、という状態であるのがベストだ。   どうしても分からなければ、喉と3ビートができている人を探して、直接教えてもらうということも可能なはずだ。   昔、中学生のころ、私がなんかの用事でギターを持って、広島市のキサダ楽器店に行ったのだが(当時、電車で1時間半ぐらいだったと思う)、家をでるときに、父が、キサダでギターの指導をしてもらってきたらどうか、、、というアドバイスをしてくれた。だから、楽器店にいったときに、店員さんに、「自分のギターを弾くのを聞いてくれと頼んで」、デモをした覚えがある。   そのようなことを頼む中学生はどこにもいないと思うが、頼むと結構教えてくれるのだ。ひとつには、誰もそんなことを聞いてこないので、聞かれるとうれしくなって教えてくれる、、、ということがあるのじゃなかろうか。   今、職場で高校だけ卒業したインターンの人がいて、私と同僚に統計ソフトのSASを教えてくれ、、、と突然頼んできたのだが、私たちはなぜか、ものすごくそのことを気に入って、ちょっとづつ教えてあげることにした。   「自分を自分の先生とするのである」ということを書こうと思ったのに、なんかずれてしまったが、まあ、できる人に直接教えてもらうことを頼み出る勇気というのは必要のように思う。   そういえば、昔、母もこんなことを言っていた。先生や大人には甘えてもよいのだ、、、というようなことを。   えらくずれたけど、まあ週末なので、このへんで。   とにかく、ひどく繰り返したりするこは、やめましょう。英語を使いはじめることで、何を知らないかを悟り、それを覚えていってください。   あ、日本の学校にいるJETの先生、ひましてるみたいです。昔JETで言ってた人が言ってたけど、生徒が恥ずかしがって、全然よりつかんかった、、、と。先生の性格もあるんだとは思うが、思い切って、会話の相手をしてもらってはどうか。

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