喉
喉なしに、英語が楽にしゃべれるようにはならない
喉のひとつのバクチは、本当に大切なことを、本当にできるようになる順番、指導法で書籍となったことだ。なにがバクチかというと、他のどのような本をみても、簡単で繰り返せる、、、というかんじの本なのだが(英語学習を体育系的な活動ととらえているからであろう)、その様式とかなり違う、、、のである。かなり違うのだから、最初は面食らうだろう。 ところが、この順番、やりかたでないと発音、聞き取りはマスターできないし、またこのステップを踏まないと英語ががんがんしゃべれないのだ。 私自身、もともと英語が、それなりにぺらぺらだったのだが、口でしゃべっているときには、緊張してしまいしゃべれないことがあった。会議などで、なぜか頭の中がブロックされてしったような感じになるのだ。 ところが喉でしゃべりだしてからは、しゃべりすぎか、、、と思うことがしばしばある。会議や発表などで。よく考えると、このしゃべりすぎ状態は、アメリカ人がやっていることと同じではないか。 喉は脳と連結したままで、あやつることができるようになるのではないか。 うーん、意味分かるかなあ、、、。 口をあやつりながらはしゃべれないのだ。口をあやつるには、かなりの脳エネルギーがいるのだと思う。考えながらしゃべれないのである。 口でやっているかぎりはアドリブが難しいのだ。 日本人以外の外国人が学会発表などで、それなりになまりはありながらも、洪水のようにしゃべっているのは、それは喉でやっているからだ、、、と思う。 英語発音や聞き取りができても、しゃべれないと意味がない。喉は、発音、聞き取り、そして長期的には英語の総合力をささえる鍵となる。喉なしに、英語が楽にしゃべれるようにはならない。喉なしに、英語をしゃべることは、水のなかで息をする、、、と同じぐらい無理度が高い。 ここまで書いて思ったことがある。日本には、表現を覚えて使おう、、、というようなアプローチが多い(「チャンクでしゃべる」という言い方もする)。文法を使うというよりは。これは結局のところ、口でやっていると考えられない=文法を使えない=アドリブでしゃべれない -->だから、表現を丸ごと覚えてしまおう、、、という発想が生まれたのではないだろうか。 たとえば、ビジネスの現場(たとえば工場)で使う英語表現集とかある。実際は、何億とおりものシチュエーションが現場では起こるわけで、100ページ程度の表現集では、対応が不可能である。 口だと、考えながらしゃべれないから文法をうまく使いこなせないのである。 ところが、日本人以外の世界のノンネイティブが使っているのは、文法であり、表現集ではない(ツーリストの場合は話が別だが)。 だから日本以外のほとんどの国には、ビジネスの英語とか生活の英語とか、ホームステイの英語とか、試験の英語、、、といったジャンルが存在しない。 喉でしゃべっていれば、脳を同時に使うことができる。だから同時に文法を使えるのだ。
英語喉と3ビートは単にネイティブが毎日やっていることである
英語喉と3ビートは単にネイティブが毎日やっていることである。それ以下でもそれ以上でもない。したがって、新しい理論、、、というふうに喉が語られる場合、ちょっと違う?かなあ、、、という気がする。 理論というと仮説検証とかいうことがあるから、間違っている可能性がある、、、というニュアンスがする。ところが喉と3ビートは、本当に単にネイティブがやっていることなのだ。 だから、たとえば、ネイティブに喉を説明するならば、うん、そうですよ、、、となる。もともと喉と3ビートは喉話者である共著者が発見したものだ。 ところがネイティブが言語学を勉強していると、話はややこしくなる。口も大切だ、、、とくる。勉強すれば、勉強するほど見えなくなるもの、、、それが喉である。3ビートのほうは、あまりにも当たり前なので、気がついてみるとネイティブも認めざるを得ない。 そもそもスペルにも書いてある単語がたくさんあるではないか。SUMMERがよい例だ。Mが二回繰り返されている。従来の音声学はなぜかこの二つのMを完全に無視していたのである。従来のパラダイムを勉強すると、目の前にあるものが見えなくなることがあるのである。 名前にもよく登場する。LARRYはラリーではない。あえてカタカナで書くならば、レイア・リーというかんじだ。Rが二回繰り返されるのだ(またAは二重母音である)。 よく見てみると2つあるでしょ。Rが。 新しいパラダイム、喉と3ビートで見えてくるものがたくさんある。それが見えてきている読者がたくさんいるのはうれしい。まだまだ従来の知識との違いに苦労してらっしゃるかたがいる。これは当然だろう。 とりあえずは忘れて後で帰ってきてみるのがベストだと思う。というのは、まずは乗ってみる、、、というのが大切だ。 私自身、喉だってのは分かるけどそれは母音だけでしょ、、、とか思い続けていた。2週間ぐらい。 勉強すれば勉強するほど、見えなくなるもの、、、 母音と子音の違いにあまりこだわらないでほしい。母音だったらこう発音する、子音だったらこう、、、というような考え方を捨ててほしい。 日本人は子音が弱いとか、母音が強いとか、そういう発想もいらない。子音と母音、、、という分類が存在するから、そういう発想が生まれたわけで、実際は、どうでもよいことだ。 勉強すれば勉強するほど、見えなくなる、、、 これには理由がある。勉強というのは、たいてい本でするものだ。本はもともと現実を説明しようとしたものだが、現実ではない。本と現実がずれている場合、現実から学ぶのでなくて、ちょっとずれてしまっている本から学ぶことになる。すると、勉強すれば勉強するほど現実が見えなくなることがあるのである。 対策としては、現実をしっかり観察することが大切だ。
日本を説明?
発音よりも内容が大切だ、、、という言い方の問題点は以前に指摘した。今回は、「日本を説明する」ということの問題点というか、からくり?について話したい。 NHKを見ていたらクールジャパンという番組があり、日本を説明する、、、ということがメインになっている。これがきっかけとなったのだが、それ以前にきっかけとなったのは、留学記ものでよく聞くエピソードで「外国に言って日本のことを聞かれて困った。日本にいるときにしっかり日本のことを勉強しておけばよかった」、、、という言い方である。 もちろん、素直にとって、それはそうです、、、と言いたいところなのだが、実際のメカニズムとしては以下のとおりだとおもう(これは意見であり、あくまでも仮説です)。 私も口発音時代は、よく日本のことを聞かれた。でも喉発音になってから、聞かれなくなった。変わりに日常のことや、どんな音楽がすきかとか、、、そういう日本でも当たり前に話されていることが会話の主題となった。 なんで口発音でしゃべるとすぐに日本の話になるのかなあ、、、。 結局のところ、口発音でしゃべる日本人に、外国人は面食らうのではないだろうか。それは、他の外国人と比べても、ものすごく違う英語だからだ。そして、この人には自分の文化は理解できないだろう、、、だからこの人の国のことを聞いてあげよう、、、と思うのだと思う(あくまでも仮説)。 旧正月で集いがあったので行ってきたのだが、ある初対面のアメリカ人と話していて、最後の10分ぐらいでわかったのだが、その人は日本にJETで2年入っていたということだった。 (ここでのポイントは、最後になって、相手が日本に住んだことがある、、、ということが判明した点。) 口発音時代にはひとこと何かいうだけで、「日本人ですね」と分かるわけだから、すぐに日本の話になっていたのだが、喉発音を始めてから、ネイティブが私を日本人だとか、何人だとか意識せず、単に「人」と認知しているように思う。 以前だと、JET経験者だと、会ってすぐに、「実は日本に行ってたんですよ」という感じで日本の話ばかりしていたわけだ。 私自身も同じようなことをしている。アジア系の人にあって、最初の2秒で相手が口発音だったら、「私は日本から来たんです。あなたは?」という感じで、アジア人同士だ、、、というような感じの話をする。最初の2秒で、相手が喉発音だったら、「あっそう」ってかんじでなんとなく納得して、アジアに関係ない一般的な話をする。 アジアというより東洋といったほうが正確だろうか。 日本の魂を忘れたか、、、という話ではない。 アメリカに来て、アメリカ人と話して、すぐに日本の話になるのは、それは、口発音でしゃべることが原因ではないかという仮説である。 そういう意味で、日本を説明しよう、、、という考えを、国際交流の第1目標にかかげるのは、あまりに大げさではないかということを言いたい。口発音時代(石器時代みたいか)に留学した日本人の経験に基づいて、「私は海外で日本のことをいろいろ聞かれて、回答に四苦八苦した。だから、これからの若い人は、日本のことをよく勉強して、海外で困らないように」ということで、そういう目標が掲げられたのでは? まずは人間と人間の普通の交流があり、その交流のなかからいろいろな方向性が出てくるのが普通っぽいのかもしれない。 現在、旧パラダイムと新パラダイムのはざまで、上に書いたことが一体、通じるだろうか、誤解されないだろうか、、、などと考えながら筆をおきます。