喉
音楽と英語
小学校に入る前から、音楽教室というのに通った。母や、おじいさんにバイクか自転車で送ってもらっていたと思う。記憶は薄いのだが、オルガンでメリーさんの羊だけは弾いたが、その最後のときに、先生が、「メリーさんの羊しか弾かなかったと指摘したような記憶があり(本当かどうかわからん)、え?でも他の曲弾けと言わなかったのに、、、と5歳ぐらいのときに思ったような気がする。グループ指導だったのだが、子供にとって、文字通り、他の曲も弾いてと言われないと分からない。 次の音楽の思い出は小学校の4,5、年ぐらいだと思うが、ウクレレを買ってもらった。教則本も買ってもらい、にらめっこしたのだが、コードの意味が分かるのに、2,3日かかった。あ、そうか、左の指で押さえておいて、右手でジャーンと弾けばよいのか、、、と。じゃあ、最初から言ってくれればいいのにと思ったのを覚えている(その後、シカゴの大学院でSASプログラミングを始めてPROC MEANSの意味が分かるのに2日かかったことに似ている)。 どちらも、じゃあ、最初っからそう言ってくれればいいじゃないかということだ。自明でなかったのである。子供にとって、ギターを弾くということの意味が、2日ぐらいがんばって分かった。 その後、子供用のアコースティックギターを買ってもらったのだが、これは、なかなかうまくマスターできなかったが、後で考えると、弦圧が高すぎて、子供の指には痛い、痛い。 中学でエレキギターを買ってもらい、そこからは、水を得たような魚であった。思うに、TAB譜というのが腑に落ちたのだと思う。TAB譜というのは、横線が、ギター弦の6弦に対応している。そして、その上にふられた数字は、何譜レットめをさすかを示す。 特に当時、ヴァンへーレン、AC/DC、LOUDNESS、OZZY OSBOURNEで出会うことができた。さらに、そのギター譜が、当時のギターマガジンだったか、プレーヤーだったかにのっていたのだ。自分の知っている曲でタブ譜を見ながら曲を一曲、一曲コピーしていく。やっているうちに、音楽のシステムが分かってくる。 当時のヘビメタで私が感謝するのは、ヒット曲が押し寄せてくる+音楽誌が楽譜を掲載してくれる+地元の楽器がライブの機会を与えてくれる+学校にいけばライバルがいる+近くの高校にも化け物のようなバンドがいる+ベストヒットUSAを見る、、、(小林克也氏のかっこいい英語を聞く)、、、という風に、あちらからも、こちらからも、学べる、楽しめる機会があったことだ。 英語学習に関しても、こんなインフラがあったらいいなあ!日本にはありそうで、ない。インフラになりうる英語喉コミュニティーの発展を願う。 ジャーニーをコピーしているころに、あ、こういうことかとピンときた。メロディアスなソロがよかった。さらに、セパレートウェイという曲では、なるほど、E単調だと、開放弦が使いやすいことに気がつく。AC/DCやVAN HALENも、開放弦が使いやすい調の曲が多い。 おそらく最も数多くコピーしたのは高崎晃氏のギターだと思うが、おそらく彼が世界最高のギタリストではないかと思う。エディーバンへーレンなどを総合的に見ると超えているように思える。もちろん、ランキングにはあまり意味がないのだけど、あえて言うならということです。 中学だったか高校だったかでヒロシマ市の郵便貯金ホールで見たコンサートは、LOUDNESS2回とマイケルシェンカーグループ。特にLOUDNESSがよかった。LOUDNESSの魔界転生のテーマから、ミラーに移るときの盛り上がりがすごかった。 とどめをさしたのは、イングウェイマルムスティーンというスウェーデンのギタリストで、当時、アルカトラスというバンドに参加していたのだけど、ヒロシマモナムールでノックアウトされてしまった。その曲を懸命にコピーしているうちに、なるほど、このようにしたらよいのか、、、というのが理解できた。さらに彼の影響で、クラシック音楽からも聞くとよいということだったので、ビバルディとか、モーツアルトとかを聞いて、そのメロディーラインをギターで再現する練習などもした。しかし、これは微妙に役にたったのかよく分からない。 OZZY OSBORNEバンドの故ランディーローズの曲を聴くたびに、ランディーローズの若き死をまだGET OVERできないと感じるのは普通ではなかろうか。彼は2枚しかアルバムを残さなかった。 2007年にDCにてついにVAN HALENのライブを観た。さらにAC/DCも近年2回みれた。 AC/DCを見たときは、アンガスヤングのギターを聴きながら、彼のやっていることを自分もおもわず再現してしまう自分がいたのだが、やはり彼のスタイルの影響は大きいと思った(というかコピーしやすい、、非常に感覚的なブルースを基調にしたロックだ)。 おっさん、ありがとう、、、と思いながら鑑賞した。その尊敬するおっさんが、大観衆の前で服を脱いで最後にはパンツを下ろしたのにはおどろいたが、、、(THE JACKの演奏をバックにだったと思う)。 さて、英語の話に移る。昨日、AC/DCの楽譜を買ってきたのだけど、歌詞を読みながら、うーん、でもシラブルをちゃんとして歌うのはどうしたらよいか?と思っていたのだが、今まで見えていなかったことにきがついた。歌詞がシラブルごとに分かれているのである。 そこにあるのに見えなかったものってこのことだ。 例えばだけど、 For those about to rockという歌詞だと、 For those a-bout to rockという風にシラブルごとに分割してあるのだ(ABOUTのとこ注目)。そして、その数が音符の数に一致している。 これが今まで見れなかったのは、英語には1シラブル語がたくさんある。だから、上の例で顕著だけど、単語ごとに書いてあるように見える。 でも、気づいてみると、シラブルごとに分けて、歌詞が書いてある、、、それがバンド譜だ。 今まで気がつかなかった。 VAN HALENのWOMAN AND CHILDREN FIRSTからの一曲。 http://www.youtube.com/watch?v=iotqohL6E5w あ、そうだ、これらの音楽に感謝したいことがある(前にも書いたけど)。同年代のアメリカ人と話が会うことである。日本ではヘビメタは、ヘビメタ好きの人だけって感じだったけど、当時、80年代のアメリカはメタルが大流行していたらしい。だから、アメリカの同年代の好きな曲を私も知っている。今はクラシックロックと呼ばれている。 私は、デーブロス(VAN HALEN)のポスターを高校のロッカーの中に張っていた、、と言った同僚がいたんだが、あ、その同じポスター、わしも持ってたわい、、と思った(レコードについてきていた)。日本とアメリカで同時進行して流行っていたのだ。 そういう意味で、小泉首相はプレスリー好きで、アメリカ人の政治家などとも、通じることができたのではないかな。最近の若い世代は洋楽を聞かないと聞いたけど、すると、ちょっと違った経験を今後するかもしれない。 一番、好きな曲は?と聞かれると、なぜかガンズ&ローゼズのパラダイスシティーかなとか思う。
言語の監獄
あり地獄が うんこすることを発見した10歳の少年に関して報道があったし、またシチズン・オブ・ザ・イヤーという賞をもらったそうだ。「英語は喉だ」ではダメのようだ(笑)。新聞社の友人にコンタクトしたけど、「もう英語しゃべってへんねん」が返事だった(涙)。 さて、前から気がついていたことがある。それは、NHKを見ていて、ニュースで、一般の人にマイクが向けられると無難な短い返事しか返ってこないということだ。ただ、たまに子供か、あるいは漁師さんとか農家の人が、やや複雑度の高い返事をすることがある。一方で、これも前から気がついていたのだけど、アメリカ人にマイクが向けられると、大量のコメントが返ってくる。 この違いはなんなんだろうか? 思うに、喉発音は人間にとって自然な発声なので、思ったことがストレートに出てくるのに対し、口発音になると、もはや、型どおりの表現しかできなくなるのではないだろうか? 朝日新聞で、「孤独」というテーマで記事が出ているが、そのなかで、ある男性が、なくなってしまった妻に、「感謝の言葉がいえなかったが残念だとおっしゃっていた。 それは、口発音になってしまった場合、すでに、言えないことがでてくるのではないだろうか?喉発音の子供のときは、ママ好きとか、パパ好きとか言っていたのではないだろうか? 喉発音のアメリカ人は、日ごろから、アイラブユーということを家族の中で言っている。兄弟姉妹に対しても。しかし、口発音となると、表現が全て、盆踊り的、型どおり、ラジオ体操的になってしまうのはないか。 あ、そうですか。わかりました。そうですね。面白いですね。さすがですね、、、とか。 喉ゆるゆるでラフに喋れるのは、同級生だけである。皆さんも経験があるのではないだろうか。同級生ならば、自由に話せる。 よく、欧米では、女性に歳を聞くのは失礼だという。しかし、実際のところ、歳は聞かなくてもだいたい分かる。だから聞く必要がないから聞かないのだと思う。日本語で聞こうと思うのは、年齢の違いで言葉使いを変える必要があるので、知りたいと思うこともあるのではないだろうか?言葉使いに気をつけなくていいのは、同級生だけだからだ。 本音と建前とか、うちと外という概念があるが、あれは口発音と喉発音で説明できるのではないだろうか?一度、スーパー口発音を見につけると、本音を語ることが難しくなるのではなかろうか。口発音自体が敬語のようなもので、かしこまったスタイルであり、心に浮かぶことをまず、口発音の言葉に訳してから話すので、感情などがストレートに出ないのではないか? 「ませた口をきく子」という表現があるが、あれは、子供が、ちょっと喉発音的な発声で、考えを述べたりすることを指しているのではないだろうか?子供なので、スーパー口発音にならない。だから、感情や意見などがストレートにでることがある。それを指して、大人が「ませた口をきく子」と言っているのではないか? 広島でも、挨拶運動というのがあって、機械的なかんじでとにかく挨拶をせよ、、、ということを訓練を受けたが、やはり田舎なので限界がある。基本的に、学校の先生が町内のおっさんとおばさんで、カープファンだったりするので、どんなにがんばっても、従属的なる関係になりにくい。「昨日、カープ勝ったのお」で授業が始まったりするからだ。 だから、日直の言う表現、「気をつけ」、「礼」なんかでも、それほど音が切れていない。5時ぐらいに流す「下校の時間になりました。用のない人ははやくおうちにかえりましょう」というようなアナウンスでさえ、それほど、口の奥で切れていない。 言語の監獄は表現にも及ぶ。今、NHKで歌の番組をやっているが、 受験だけどがんばってくださいとか、がんばれとか、のりきっちゃえば、、とか、あせらないで、、、とかそんなのばっかりである。 英語を第2言語とすることで、同級生でなくても、普通に喋れるようになる可能性がある。あ、そういや、がんばれとか、日本語になりにくい表現って、やっぱり英語にはないのだな。
縄張り知識論
私は、大学時代に、なぜか、ミシェルフーコー系の本をよく読んでいた。やや難解なのだけど、英語で読んでいた。日本語で読むよりはわかりやすかった(原書はフランス語)。2011年の今、医学などに肩を並べるほど、大切な分野として、哲学、社会学、人類学、文学が大切になってくるのではないか、、、という確信に満ちた予感がある。 というのは、私たちが、ついに日本という文化を理解し、人類の文化を理解するために、そういういわゆる文系分野が役に立つ時代が来たのではないかと思うからだ。 日本の活性化のためには、人的資本(技能、スキル)のレベルを上げることが大切だが、その技能をマスターするための、「分野(例、学問の領域)」に縄張りがあり、その分野の門番のような人達によってかたくガードされているというのが問題だ。 英語喉は、日本人にこの事実、縄張り的知識国家日本を意識的に認識することの突破口になるだろう。 どういうことかというと、英語喉は、音声学という領域の外から来たという点が面白い。私のことではない。ジーナは、言語学者でなくて、アーティストである。お父さんもお母さんも、社交ダンスを極めた人で、ジーナもダンスがセミプロなみである。妹は、プロの音楽家で声楽家でピアニストだ。どの点をとっても、何か課題を与えられ、それを瞬時に理解し、体得し、実践しないといけない分野である。結果を出さないといけない分野である。 結果を出さないといけないから、私が真顔でジーナに、「どうやったらネイティブと同じ発音になるのか」と5年ぐらい前に問うたときに、それをマジで考えて、解決してしまったのである。 つまり、英語の音声に本当の体系が、アーティストの手によって明らかになったということになる。その分野の外から現れたアプローチが、その分野の課題を解決してしまったのだ。いや、言い換えよう。日本人の英語がどうしたらネイティブと同じになるかというリサーチクエスチョンさえ、音声学者の死角になっていたのだ。 どうしたらネイティブと同じになるかという問いは、あまりにも根本的すぎて問われていなかったのである。 逆に、外国人が英語の音について書いていることを英語で読み、それを日本国内に紹介するというのが音声学の分野の主流となっている(が、ちなみに、社会学でも同じ傾向がある)。大半の人は英語が読めないので、紹介するというのは、それなりに意味があるかもしれない。私にとってはそもそも、直接英語が読めるので、メリットがない。 学問や、その他の「領域」が縄張りのようになって、真とされている知識によって独占されていると、真実が見えなくなってくる。これが問題だ。 さて、英語喉は、他の分野にも少しづつ刺激をあたえていくだろう。歌手、ボイストレーナーの菅原里奈先生が、英語喉の原理をいち早く理解され、たくさんの日本人の歌唱指導の経験を元に、新しい方向に、歌唱の、芸能の分野を広げてらっしゃる。音楽、芸能は、結果が重要視させる世界である(と信じたい)。菅原先生たちの製作した動画を見て、感動しない人がいるだろうか? まだまだ英語喉は、他の分野に広がるだろう。聾唖の人達が音の区別をするうえで、英語喉が有効であることは、私は確信を持っている。しかし、発音の分野でそうであるように、ジーナと私が二人でまずはアメリカにおいて開拓しなければならないかという予感がしている。というのは、スピーチセラピーの分野も、アメリカ、日本の両方において、縄張りの門番の人がいると思うからだ。言説戦争に突入する可能性があるから、私は、この件に関しては水面下にいようと思う。 いや、もしかしたら、口発音の知識と喉発音の知識が合体することで、史上最強の、マジンンガーZ級の進展につながるかもしれない。口発音は、音の最終調整としては有効だからである(大げさにやらないかぎり)。 学際的アプローチが大切なのだ。しかし、学問だけではない。英語喉がアーティストによって発見されたように、さまざまな領域、芸術や生活関連の分野の色々な人達が知識を出し合うことで、日本の人的資本を向上させることができる。 大切なのは、結果を出すということだ。 だから英語教材であれば、著者自身が英語が喋れないといけないし、その喋っている姿を動画などで公開するべきである。このマルチメディアの時代、それをせずに、遠くから、文法が大切だとか、ぺらぺら喋れても中身のない人はダメとか、言われても全然説得力を持たない。 文法は、頭を鍛えるとか、深い思考を可能にすると多くの学者はいうが、それではそのことを研究によって証明しているかというと、査読付きの学術論文が見当たらない。 これまでなぜ結果が出しにくかったのかということを理解するために、日本の知識社会が縄張り化し、外に対してオープンでないという点がある。その点を理解するために、今後、哲学、社会学、人類学などのアプローチが有効になると思われる。歴史もそうだ。浮世絵をじっくり観察したり、古事記を読んだりして、現在の文化と当時の文化の違いおよび共通点をさぐる。そうすることで我々の文化を確実に理解する。 これらの学問分野の壁もとりこわすべきで、大学などで、1年時から学部を選ばせるという制度はとりやめないといけない。縄張り制度を温存する装置だと思う。高校時代に、情報の少ないなか学部を選び、進学すると、その学部の先生の家来になりにいくようなものだ。一旦、入ると学部を変えにくいからだ。勉強してみて、自由に専門を選んでいくという制度が必要だろう。 学問でなくてもよい。高校生がホームステイをするなら、目と喉を開いて、相手の文化を観察する。 さて、ミシェルフーコーの話からはじめたこのエッセイであるが、フーコーは監獄の歴史だとか、精神医学の歴史だとかを、言説物として扱ったひとで、歴史学に新しいアプローチを導いた人だ。あいにく読みにくい。私は、最相葉月氏の「絶対音感」が日本における言説研究の最初だ勝手に思っているので、そちらを読むことを薦めたい。文化とは何かを理解するために必読の書である。