教育実践・言説の脱構築

教育実践・言説の脱構築
知識・技術習得の科学を

いかに人は読めるようになるのか。いかに人は外国語ができるようになるのか。いかに人は数学ができるようになるのか。いかに人は絵が描けるようになるのか。いかに人は、交渉上手になるのか。いかに人はなんらかの知識を習得するのか。 この習得のプロセスの科学を一から作り直す必要があると感じる。 練習さえしていれば、繰り返していれば、うまくなるという考え方があまりにも我々の日常生活を支配しているように思える。 実は、習得のしかたをあきらかにしてしまえば、誰でも色んなことができるようになるのではないだろうか。 英会話は一つの例となるであろう。喉で発音し、3ビートさえやっておれば、英語の習得が突然簡単になる(比較的)。東アジア系以外(例 日本語話者)の地球市民が、当たり前にやっていることである(気がついてみれば、英会話はこれまで思われていたほど難しくないのである。) 思うにそれぞれの分野に言説的障害物があるのである。これを取り除くことが一つの急務だ。例えば、ピアノ演奏。ピアノを学ぶ人口は大きいが、多くの人が楽譜を読むところでつまずく。 これは楽譜を読むときに、2箇所を見なければいけないという言説的な障害があるからだと思う。上のほうの部分(たいてい右手でひくところ)と下の部分(たいてい左手でひくところ。何世紀も前(?)に発明された音程とリズムの表記法が、言説的な障害になるのである。 私自身、小学校1年生から6年生までピアノのレッスンに通ったのだが、ここでつまづいた。読めないのだ。ところが、私のピアノの先生は、それに気付かなかったのだろうか、、、私がピアノ演奏能力がない、、、と思ってしまったように思う。演奏能力自体はあったのだが、楽譜が読めないのである。だって、右手のほうは、一番下の線の上にあるおたまじゃくしはミなのに、左手のほうは、そうじゃない(なんだったか忘れた)。 確かに目は二つあるが、それぞれで別の部分を見て、理解するのはカメレオンではないのだから無理だ。思うに、2つの部分の間にある空白をなくしてしまうともっと読みやすいだろう。2つでなく、一つとして読むことができる。また、楽譜はあとで学ぶと良いと思う。まずは、直接、楽譜なしで指導するのがよいだろう。 かわりに、手を丸めてひくようにいつも指導された。手を丸めることがそんなに大切だったのだろうか。ちなみに、私は、現段階では、手をまるめようが、まるめまいが、適当にならピアノを弾くことができる。永久に理解できない言説の破片(手をまるめなさい)である。 適当にピアノが弾くことができるようになったのは、偶然だった。高校生のときに、レットイットビーをピアノで挑戦してみたのだが、そのコード進行が非常にシンプルだった。シンプルだったおかげで、コード理論を実感、体得することができたのだ。なーんだ、Cってそういう意味だったのか、Gってそういう意味だったのか、、、とすんなり理解できたら、急に音程のメカニズムが見え出した。 思うに、ドレミファでなくて、CDEFGABCと読んでいたら(アメリカでは音階をそう読む)、この知見はきっともっと早い時期に起こっていただろう。ドレミでいうから、ドレミの意味がわからない。もう一つの言説的障害物である。アルファベットなら、ああ、DはCの次なんだ、、、とすぐ直感的にわかる。もちろん、後で考えれば、当たり前のことだが、小学校1年生のときには分からなかった。 あとCで始まることも(Cがドであること、Aじゃなくて)、なんかかえって音程のメカニズムを分かりやすくしてくれているような気がする。気のせいかもしれないが。 ところで、手を丸めなさい、、、という指導だが、Rを言うときに、唇を丸めなさいというのに少しだけ似ている。手を丸めても、丸めなくても演奏はできる。唇を丸めても丸めなくてもRはいえる。  

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教育実践・言説の脱構築
「基礎」と「応用」の区別の脱構築を

基礎、そして応用とは何か? 英語発音においては、口の動かし方がこれまで基礎と思われていたので、それをおおげさに動かして練習していれば、応用もできるようになると思われていた。ところが、口の動きはどちらかというと、基礎ではなくて、感情表現に近いものがある。大げさに相手にメッセージを伝えたいときに、口が大きく動くのだ。 ねいてぃぶが普通に喋っているとき、口はあんまり、おおげさにはうごいていない。現実を描写する要素の強い映画を見ているとよく分かることだ。 基礎とは、どんな状態のときでも存在する部分を呼ぶと思う。 英語発音、聞き取りにおいての基礎は喉と3ビート。それだけである。それ以外に注目すると練習が難しくなる。気が散るからである。イントネーション、音の長さ、強勢などに気がとられると、喉音、3ビートが聞けなくなるのだ。 さて、他の分野でも「基礎」と「応用」はあるが、その定義、実践は正しいだろうか。 剣道におけるおおげさな素振りは基礎と言われるが、試合において、大げさな打ち方をするならば、すきができてしまう。そういう意味で、素振りは実は基礎ではない可能性がある。練習にも、試合にも共通して大切な部分が基礎であるはずである。 中学や高校の数学などではどうだろう。基礎的な問題と応用問題の区別がある。違いは一体なんなんだろうか。経験的には、基礎のほうは、答えがすぐ書いてある?応用のほうは、文章題的だったり、答えが書いてなかったり。 厳密にはどうなんだろうか。  

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教育実践・言説の脱構築
学習の場における実践、言説の脱構築を

ファンダメンタルなレベル(表層でない)での文化コードの脱構築を。 アメリカである恐ろしい光景をみたことがある。 教師が、生徒に教科書のまとめを書かせていた。同時に、教師は、何かを解説していた。教室は静かで、あたかもなんの問題もなく時がすぎていた。 ところが、絶対的に変なことが起こっているのだ。生徒は教科書をまとめているのだから、静かに作業しているが、教師の話は当然聞いていない。ところが教師は、なにかの説明をどんどんしている。生徒が静かにしている=集中している、、、、=自分の話しも聞いている?と思っている? これは異常な例かもしれない。ところがこんな風景も見たことがあるし、体験したことがある。説明は次のセクションのことに写っているのだが、生徒は、直前に説明されたことをノートに必死に書いている。これは、アメリカでも見たし、日本のでも体験した。 静かにしている=集中している=授業がうまくいっている 、、、という解釈は文化コードである。 最近では、コンピュータを使って授業をすすめるだけでなくて、コンピュータのつくりだす環境の中に、実際に入り込んで、授業をするというシステムがある。そういう空間では、理解する、意見を述べる、学ぶといった大切なことを、実体験できるようだ。

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