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英語喉ライブの方向
昨日のエントリーに英語喉ライブの動画を載せておりますので、ぜひみてみてください。あるいは、以下をクリックすると、これまでのすべてのものがUSTREAMでみることができます。 こちらです。 私、KATSUさん、KENJIさん、WILLさん、ルネさんの個性が出て面白かったです。英語喉ライブキャラという言葉を作ってみました。前回のMASAさん、YATTAMONさん、RONさんも合わせて。 NHK INTERNATIONALなどと比べると、ある点が違います。それは、日本人の出演者が帰国子女でないということ。純国産でありながら、英語をがんがんしゃべろうという企画です。 上智大学の吉田先生が、あるスーパーハイスクールで特別な英語の教育を受けている日本人の生徒が、ネイティブのようにぺらぺら喋るのではなくて、日本人の英語の先生のようになりたい、喋りたい?、、、のだということをおっしゃっていましたが、私はやはりそれは、微妙に前時代的だと感じます(てか、前時代でもないかも、、、ずばり今風か?)。というのは、結局、それだと、グローバル世界で太刀打ちできないと思うからです。 ネイティブのようにぺらぺら喋るということが嫌われていますが、実際、日本人以外のノンネイティブは、ぺらぺら喋っています。インド人の英語を聞いて、なまりがきついと日本人は思いがちですが、全く問題なしに通じているわけです。 「ぺらぺらネイティブのように喋る必要はない」という言い方は皮肉にも、ぺらぺらネイティブのように喋っている人が言うせりふであることが非常に逆説的です。例えば、上智の吉田先生は、ぺらぺらネイティブのように喋りながら、「ぺらぺらネイティブ英語」を批判?されているわけです。 これは一種の「ドラマ」だと思います。 ドラマというのは、茂木健一郎氏のプロフェッショナルという番組を見ていると良くわかるのですが、日本人の成功者の話がすべて同じドラマになっていきます。 1)若いとき、ある悩み、障害にぶつかる。 2)そのとき、あるきっかけで、それを克服 3)そして、努力の結果今がある。 これがドラマの一例です。聞いていて、心が温まるような構成をドラマと呼びます。しかし、本当に人生がドラマのフレームに当てはめられるかどうか、、、という点は疑問です。 また、立教の鳥飼先生は、日本人には日本人の英語があってよい、、、ということをおっしゃっていますが、実際上、それでは、通用しません。それは、なぜかというと、日本人の英語はシラブルの数が多いので、単語が根本的に違ってしまうのです。だから口発音を喉発音にする必要性があります。口発音では、例えばGROUPという単語を1シラブルでいえません。1シラブルで言わないとGROUPがGU-RU-PUになり、これではグローバルに理解してもらえません。 鳥飼先生のおっしゃっていることも一種のドラマだと感じます。例えば、中国人には中国人の英語があるように、日本人にも日本人の英語があり、そして、それはそれでいいのですよ~と納得すればよいということをおっしゃっています。しかし、中国人の英語は世界で通用するのです。それはシラブルが正しいからです(4週間前にアメリカに来たばかりの中国人が剣道クラブにいますが、大学の授業の理解は全く問題がないと言っています。) 多くの人が発音より内容が大切だと言いますが、それは日本に住んでいて英語を使っていない場合に起こる発想でしょう。実際は、発音が喉発音でないと、ネイティブを含む外国人は、日本人のほうを「向いてさえ」くれません。それは口発音、そして硬い姿勢をしている日本人を見て、外国人が、皮肉にも「この人は私に興味を持っていない、むいてさえいない」と無意識のうちに思ってしまうのです。 慶応大学の大津先生は、英語を勉強するさいに、日本語などとも比較を行いながら、言葉としての面白さを学習者に伝えるのがよいのじゃないかとされています。しかし、私はどうしても結果を考えてしまいますが、じゃ、そうしたら英語ができるようになるのかな?と思うのです。 英語教育に新たな意義をみつけようという試みは良いと思います。が、英語教育はやはり英語ができるようにあるのが目的なのがいいのではないかな? もちろん、言語の面白さに気づいたら、英語力が向上するのかという点など、リサーチによって証明する必要があるでしょう。世界のノンネイティブは、そういうことにかまわず、英語がぺらぺらなのが多いので、関係性はうすいのではないでしょうか? なんとなくすでにドラマと化している英語の授業のドラマ性を高めるのには役立ちそうです。 英語学習について日本語で、日本人しか理解できないかたちで語るのが、非常に面倒くさいと感じます。 英語を、とにかく英語のまま喋りませんか?日本人以外の英語学習者はすでにやっていることです。中国人は、日曜の朝、公園で英語会話の練習をするそうです。輪になって英会話をしているそうで、そこに入り込んでいって喋るそうです。 文部科学省さんは、英語ができる日本人を目指して、いろいろと努力をされていますが、私はその一歩手前を行って、英語をどうどうと使える日本人、外国人と普通に喋れる日本人の姿を伝えたいということで英語喉ライブを続けたいです。 それは私のことを言っているのではなくて、RONさん、MASAさん、KATSUさん、KENJIさん、YATTAMONさんのように英語喉で聞けて言える人たちを指しています。 他の皆さんも、どんどん英語喉ライブに参加してください。MASAさん、KENJIさんの友人たちが、これからもどんどん出演してくれると思います。 帰国子女じゃない日本人が、対等に、外国人と話をしたり、笑ったりできる場所で、この放送に、日本に興味を持つ外国人を見てくれるようになったら面白いです。 皆さんのなかには、まだこの放送を見て、言っていることがわからなかったり、字に書いてあるのを見て、言っていることを確認したいと思う人がいませんが、英語はアドリブですから、分からなかったらしょうがありません。ノックの要領でいつも、来る英語は違うのです。 私は既存の番組は、日本語ばかりで、英語の勉強になりにくいのではないかと感じます。 日本人が堂々と、外国人と喋るという場面がどんどん見れると、きっと、皆さんだって、やってみたいと思いますよね。 私自身、この番組を通じて、ぼけとつっこみの練習をしたいと思います。 今回は、それぞれメンバーの個性がよく出たかなと思っています。私は、他人になることではなくて、自分自身を見つけるのが英語喉パラダイムだと思っているので、かならずしも、他人になろうとしているわけではなくて、喋りながら、本来の自分が出せたらなあと思っています。 喋っていて、日本語のときの自分と英語のときの自分が同じになったと感じたら成功じゃないかと思います。また、小学生のころの自分と同じになれたら、これも成功でしょう。 KATSUさんも、KENJIさんも、日本語で喋るときのイメージと同じでしたね。 WILLさんもルネさんも、個性がよく出ていましたよ~。 今後もよろしく。
第2回英語喉ライブ ネット放送敢行しました! 日本時間10月9日(日)の正午
英語喉ライブ第2回。日本時間の日曜日の正午から午後1時まででした。アメリカ東部時間でいうと、土曜の夜11時でした。以下で放送しました。 http://nippondream.com/eigonodo/ustrea ゲストは、KATSUさん、KENJIさん、WILLさん、KENJIさんのアメリカ人の友人たち テーマは、「アメリカで働く」です。KATSUさんとKENJIさんのアメリカでの労働生活についてインタビューしました。 http://www.ustream.tv/recorded/17766092 http://www.ustream.tv/recorded/17767100 MP3形式音声ファイル版はこちらです。ただ、録音をするのを途中まで忘れていたために、前半が入っていません。 [audio:http://nippondream.com/file/Eigonodo_live_2_10_08_2011.MP3|titles=Eigonodo_live_2_10_08_2011] 直りんはこちらをクリック。
新しい教育の方法を提案する 英語喉流
ラジオを聴いていたら、スティーブジョブスのような人物は今後アメリカに現れるのか?みたいな問いに、あるコメンテーターが、アメリカの若者で、お金はなくても、 希望と教育がある ので、だいじょうぶじゃないか?と言っていた。 一体、教育とは何かを考えてみると、、、 教育というのは、1)なにかができる人が、できない人に教えて、できない人をできるレベルにするということ、、、だろう(そしてその過程で、できる人も、できない人から逆に学ぶことがあったりするだろう)。 そして、(2)そのできる内容が、役に立つことが大切だろう。これは英語ではRELEVENTであること、、となるだろう。 はるか昔だが、私は一緒に住んでいた祖父母から、農業の基礎を教えてもらったのだけど、それは上の(1)と(2)をよく満たしている。い~ろ~い~ろなことが、実際に存在するものをどう動かすかということだ。 くわの使い方だが、いもをほるときに、ざくっとくわを入れる、、、そして、それをこての要領でぐわっと土を掘り返すと、そこに、さつまいもが、登場する。さつまいもに傷がつかないよう、大きめな土のかたまりを掘り起こすのだ。シャベルカーのようである。 みかんを「もぐ」ときは、みかんのヘタ(くきのところ)をいったん切ってもいだあとに、短く切らないといけない。なぜならば、鋭角になった聞茎が他のみかんに傷をつけてしまうからである。 水田に苗を植える作業は、ポイントは、どうやって、まっすぐに、また等感覚に苗を植えていくかであるが、これは、紐のようなものをまずまっすぐ張る。そして、その紐には、等間隔に目印がついているので、そこをめがけて苗を植えるのである。 なんとすばらしい工夫なのか! びわの栽培の場合だが、面白いのは、びわに袋をかけるプロセスだが、その袋自体をつくるのも、物理の法則とまではいかないけど、もっと感覚的なるコツがある。新聞をかさねておき、ちょっとづつづらしておいて、そこにのりを塗ることで、一発で何枚もの袋をつくってしまう(これは文字では表しにくいので、あまり追求はしない)。 耕運機は、田に水を入れて、それから田んぼを耕すのだけど、方向転換のときも、耕運機自体を後部を持ち上げながら、円を描くようにして、方向転換をするのだ。これも、また幾何学の応用のようであるが(いや、逆だ、、、現象があって理論がある)、すべて、感覚的で本能的な勘がいる。 このように小学校時代は、感覚的、本能的、肉体的な教育のようなものが田舎にはたくさんあるのだけど、ちょっとづつ、そういうのがなくなっていって、文字の世界に入ってくる。 本を読むのが大切だということになる。 暗記が大切になり、試験が大切になる。 自分が自分でなくなっていくプロセスのように思える(そして、非常にやっかいなのは、このプロセスで勝者となった人のみが、その制度にコメントできるという雰囲気があることじゃないかな)。 しかし、今、仕事をしていて使っている知識は文字を通して学んだというより、実際にやってみて、身につけたものばかりのような気がしてならない(統計プログラミングなど)。 最近、ラジオ放送を始めて(いや、剣道も関係しているかもしれない)、大昔の感覚を取り戻し始めている。それは、放送のために、色々な器具を使っているのだけど、その使い方が必ずしも、教科書的にはいかず、結構、感覚的、体感的、本能的なのだ。 MIXERの使い方、配線のしかた、ボリュームのコントロール。 理論で解決しない問題がある。例えば、このあいだの放送では私の声が微妙にちいさかった。それはなぜかというと、ヘッドフォンで音のバランスを聞いているときに、どうしても、自分自身の声が喉から頭のほうに響いてくるので、実際よりも大きめに聞こえてしまう。 だから本当のプロならば、MIXERの専門家が、スタジオの外で音を調整するのだろう。 配線にしても、モノだったりステレオだったりの配線でやりながら、結果を聞いてみながら調整する。 いろんなことを勉強できた。YOUTUBEを見ていると、例えばビデオ機からどうやってPCに配線をするか、、、というのを小学生(アメリカ人)が説明してたりする。なるほど、字の説明でなくて、こんな感覚的な説明が動画として、今ネット上にたくさん存在するのか~~。 PC2台はいると、本には書いてあったのだが、ネット上の説明によると、あるソフトを使うと1台でいいらしい、、、とか、色々である。 日本の教育は、文字だけで学ぶという方向に極端に走りすぎているのではないだろうか? 文字だけで学んでいるから、歴史教科書で何を選ぶかが問題になったりする。 国語など、文字を追求しすぎて、あげくのはてには、声に出して文字を読むとか、やけくそ状態じゃないか? 情操教育のために古典を、無理やりでも、読ませろ、、みたいなことを「国家の品格」の藤原先生は言っているけど、情操教育ってのは、家族で遊んだり、楽しんだり、笑ったり、あるいは(ペットが死んだりして)泣いたりしているうちに自然に出てくるもんじゃないのかなあ。 上で説明した農業だって、究極的には力学だったり、幾何学だったりだ。体を動かす、なにかを動かしてみる、などという原始的な体験を、知識に結びつけるような教育がよいのではないだろうか? 英語喉だって同じだ。発音できる、聞き取れる、、、つぎは友達づくりに挑戦する、、、そのうち、外国流のマナーなども身につくかもしれない、、、いろんな方向に学ぶが分散する。そして、いつのまにか、それがビジネスにつながるかもしれない。