Uncategorized
新しい文化論を 廊下を走らない
なぜ私は走るのか、、、について考察を昨日行った。断定調で書いてあっても、ぜひ、出発点(=仮説)として読んでいただきたい。 ちょっと頭の奥にある昔読んだことを紹介したい。それはフーコーだったか、ウェーバーだったか忘れたのだが(いずれにせよニーチェの影響を受けた人だったことは確か)、西洋の軍隊がある歴史の一時点から、遠くから見ても兵隊に見えるような一挙一動をはじめたという点だった。 つまり我々の一挙一動には歴史性があるということだ。歴史性があるといういいかたは、簡単に言うと、当たり前ではなく、大昔からあるわけではなく(国家の近代化とともに生まれた、、、という視点が多い)、将来もあるわけではないということだ。歴史性があるならば、一体、それがいつどのように始まったのかを問いたいものだ。 私はなぜ走るのか、、、から「私たちはなぜ走るのか」に飛躍するさいには、本当に、それが私だけのことでないのかを確認する必要があるのだが、このあたりは、間違うことがあるかもしれない。 私は、例えば、何人(なにじん、、、国籍のこと)とラーメン(というか、ベトナム系の麺のFO)を食いに言っても、いつも一番先に食い終わってしまう。これは私だけのことなのか。そもそも、出発点が違う。他の西洋人(アメリカ人以外も含む)は、まずは、麺とスープが冷めるのをしばらく待っているのだが、私はかまわず、熱い麺・スープを口の中にほおりこむことができる。そして、なんと口のなかにおいて、麺、スープの温度を冷ますようなものすごいテクニック、スーパーポンプ口(以前紹介ずみ、、「ぽんぷろ」じゃなくて「ぽんぷぐち」ですよ)で、食っているように思う。 このことを指して、なぜ「私たち日本人はラーメンを早く食えるのか」と言ってもいいものだろうか。もしかしたら、私だけかもしれない。このあたりは、できるだけ確認する必要があるだろうが、なんとなく、あっているような気がするので見切り発車で書いてしまうかもしれない。 ま、とにかく「なぜ私たちは走るのか」という問題にかえりたい。この大問題を考え出して思い出したことがある。それは小学校のときに、「廊下を走らない」という鉄則があった。鉄則だが、つねに意識的のなかでこの鉄則が再生産されるようなメカニズムがあった。 班というシステムがあり、クラスが5つぐらいのグループに分けられていた。そして、今週の目標、、、というのを決めるのだが、そのときにネタがないので、「廊下を走らない」とかいう目標を決めるわけだ。 「釣りにいかない」とか、「ペンを落とさない」とか、わけのわからん目標を決めたこともある。あ、それはどうでもいいことだ。ポイントは、廊下を走らないということがいつも我々の意識にあったということだ。 廊下には、「廊下を走らない」という張り紙があった。 海外でも存在するのだろうか。このあたり、ちょっと調べてみたい。もしかしたら、我々日本人の屋内と屋外に関する「けじめ」という感覚を深く理解できるようになるかもしれない。 このトピックは全然、英語発音と関係ない、、、ということはない。私は、今でも、廊下で喋っているときに、声が小さくなってしまい、ネイティブにWHAT?と聞かれてしまう。これは、何か屋内、屋外、廊下、、、というものになんらかの文化的ルールがあり、なぜか私の声を小さくしてしまうように作用するからである。そのあたりを根本的なレベルで理解する必要があるのだ。 ちょっと気になったのでGOOGLEで「廊下を走らない」を検索してみた。すると、非常に関連性の高いトピックがHITした。ところが、英語でやってみると、全然、ひっかからない。表現がまずいのだろうか。Don't run in the corridorでやってみた。というか、表現として、これだ、、、というのが存在しないのか。 日本のGOOGLEではこんな感じだった。 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%BB%8A%E4%B8%8B%E3%82%92%E8%B5%B0%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84&lr= ちなみに、ランクの高いものから少し紹介すると、、、 「子ども達が廊下を走らないようにする指導」は学校の永遠のテーマの一つです。 なぜならば、「子どもは廊下を走る存在」だからです。 だからといって、そのままにしておいて良いわけがありません。 廊下を走れば危ないのも事実なのです。 8日に「廊下を走らない」のブログを出したら意外や反応が多かったのにびっくりしました。やはり古くて新しい課題なんでしょうね。 廊下を走らない. 言葉づかいをきちんとしよう。(2001年度の目標). 生徒会(中学・高等部)のきまり. 時間を守る。(5分休みは外へ出ない) ... 廊下を走らない。 時間を守る。(5分休み以外は外へ出ない。) *上記のことは基本的なことである。 ...
とにかくゲップエリアで色々な音を出してみる
Sさんに、これから始める学習者、口発音から喉発音への移行で苦労している人に何かアドバイスをお願いしますと頼んだら、とてもよい返事をたいだいた。 http://www.nippondream.com/tips.htm#advice3 その中で、特に良いと思ったのは、この点である。 .ゲップエリアでいろいろな音を出してみる 喉をリラックスさせてゲップエリアでとにかくいろいろな音を出していると ゲップエリアを定位置に出来るようになったように思います。 結局のところ、喉発音を実践するに、英語である必要はない。フランス語でもいいし、スペイン語でもいい。自然界に存在する音でもいいし、犬や猫の声でもいい。英語で使われている音は、無限なほどの音のなかの一部にすぎない。だから、まずは、いろんな音で実験してみてもよい。 そういう意味で、現在の英語力は喉発音のマスターには関係しないと言える。この点は、喉を受け入れてくれている人たちでも、きっと、「いやKAZさん、それはないですよ」とおっしゃるだろうが、今後も言い続けていきたいし、きっと分かってもらえる日が来るだろう。それはきっと、直接教えさせていただくような機会が将来あるならば、分かってもらえるだろう。喉発音で犬の鳴き声をやってみるのに、その時点での英語力は関係ないが、実はそれは、英語の音でも言えることなのだ。Rがいえるために、その時点の英語力は関係ない。もちろん、英語を知っていれば、とっつきやすいということはあるかもしれない。 あとSさんの返事のなかで、これいける、、、と思ったのは、次の箇所だ。 .ネイティブが車の音や鳥の鳴き声などを真似しているのを聞いて同じようにまねる 実際の車の音を真似るのではなく(それはそれでいいが)、ネイティブが真似ているのを真似る。 これはいけそうな気がするがどうだろうか。YOUTUBEなどでネイティブがそうしているビデオを探すとよいかもしれないが、ネイティブの友人や、英語ネイティブでなくても外国人の友人がいれば、協力してもらえるのではないだろうか。 英語喉をマスターしてから、ネイティブと喋って英語力を高める、、、という考えかたもあるが、もし可能であれば、英語喉をやりながらも、ネイティブと喋る(同時進行)というのも可能であればやってみてほしい。 ネイティブの知り合いがいなければ、英語喉をやっている人同士で一緒にやってみるというのもいけるのではないだろうか。 社会資本という概念を前に紹介したが、人と人のつながりから生じる有益なリソースをそう呼ぶ。 社会資本をしっかりつかって英語喉に挑戦してみてください。
剣道の試合を見て思うこと
剣道の上級者の試合を見ることができるサイトがある。全日本剣道連盟のものだ。 http://www.kendo.or.jp/picture/movie.html ここにあるビデオクリップを見ていて、色々と考えることがあった。剣道の普段で練習で大切とされていることが、上級者の試合においては、見られない点が面白いと思った。 まず、上級者、それも、ものすごい強いレベルでは、剣士が声を出していない。逆に、小学、中学、高校レベルの剣道の練習および試合では声をだすことは普通である。声がでていないと、審査員が、途中で試合をとめて注意をするぐらいだ。たまに、ちゃんと面が入っていても声が出ていなかったという理由で無効になることがあるくらいだ。ビデオの試合を見ていると、面を入れた瞬間でさえ声を出していないように思える(これは確認がしにうくいので断言できない)。 結局のところいえるのは、声を出すというのは、学生の剣道だけなのだろうか。思うに声を出すというのは、先輩と後輩の権力関係を日常レベルで生産、再生産するための、一つの装置であると感じる。声をだせよー、と激を飛ばすのは、きまって先輩だったり先生だったりする。声をださないから、負けたんだ、、、というようなことも、いうし、またバレーなどの試合でもそういう言い方をしたりするぐらいだ。 アメリカの大学院で、驚いたことがあった。その大学院には付属高校があったのだが、テニスをする高校生が、全然、練習中に声をだしていなかったことに驚いた。私が中学のときは、テニス部は声をだして練習していた。でもよく考えると、声を出していた本当の理由は、敷地がせまかったために、全員が全員、練習できない。だから、だらーんとしているわけにはいけないから、下級生が声を出すことで、真剣にやってますよ、、、ということを示すのが目的だったと思う。 小学校の時に野球部をやっていたのだが、レギュラーから外れてしまった。今思えば、たった12人のチームだったから、補欠は3人だ。練習に参加させてもらえそうなものだが、補欠の3人は、補欠として球拾いを1年間しなければならなかった。そのとき、声を出せと監督に言われたのだが、声を出すことと球拾いが仕事となった。補欠とはいえ、皆と一緒に練習させてもらえるだろう、、、と甘い期待を持っていたし、またうまくなれば試合に出れると無意識のうちに思っていた、、、が、そのレギュラーメンバーの発表で全てが終わっていたことは、若すぎて、知るよちもなかった(小学6年)。 大人となりやっぱりどう考えてみても補欠が3人なら、打撃の練習をさせてもらったり守備の練習をさせてもらったりしてもよいようなものだが、いつも球拾いのみだけだった。もともと私の小学校では、あいさつ運動というのがあって、声をだしてとにかくあいさつを、、、というのがあったから、野球部で声をだす、、というのも普通と思った。それ以上に不思議なのは、なぜクラブをやめなかったか、、、である。「一度始めたら最後まで」とか「初心を忘れるな」というイデオロギーに染まっていたからだと思う。冬でも裸足で外で縄跳びを、、、というのがあって、私はそれを達成し、一冬を越した。始めたからにはやめなかった。 いつから私たちは声を出し始めたのだろうか。昭和の初期だろうか?大正?明治?それとも、昔から声を出していたのだろうか? とにかく声をだして英語を読む、、、というアプローチがあるが、そのあたりも関係があるように思えてならない。日本語を声を出して、皆で読むというようなものもある。 音楽の時間にも声を出すように言われたが、これは納得がいく。声をしっかりださないと歌にならない。ただ一つ、非常に不思議なことがあった。声をしっかり出していると思うのに、先生が口を大きく開けなさい、、、と言っていたことだ。大人になって思えば、口の大きさは、よっぽどでないかぎり音量に関係しないような気がする。歌手を見ていると、口をそんなにいつも大きく開けているわけではない。口の開け方はどちらかというと感情によって左右されているように思える。 小学校で演劇をしたのだが、せりふをいうときに、自分としては、おおきな声をだしていたのだが、指導の先生に、「口を大きくあけろ」と、クラスメート全員の前でこっぴどくしかられたことを強く覚えている。口を大きく開けるというのは、音量の問題ではないのだろう。私はがんばって、元気に指導に従っています、、、というのを視覚的情報として、伝えないといけなかったのだと思う。 あと色々あるのだが、剣道のビデオクリップに話を戻したい。ものすごくショックだったのは、剣道が、お互いをいかにだまして勝つか、、、ということがポイントのようだったことだ。だます、、、というと言葉が悪いが、ストレートな面で勝っているように見えて、画像をよく見てみると、面を打つ前に、あたかもこてを狙っているかのようにみせておいて、相手をごまかして、そして面を打つ、、、と。 そういうテクニックは、練習ではやらなかった。めーん、こてー、、、とストレートに打つ練習ばかりをしていたから、試合でもほとんどそうしていた。 あと、足の速さ、そして踏み込める距離を一生懸命鍛えようとしていたんだけど(少なくとも2メートルぐらいは、ストライドしたい、、、というかんじ)、上級者の試合を見ていると、足はちょっとしか動いていない。相手が打ってくる、自分も打っていく、、、この二つの行動が同時に起こるのだから、そんなに遠くまで足をもっていく必要がないのだ。 ところが練習のときは、面がものすごい遠くに感じられた。 もし、私が今、剣道を始めるとすると、まずは、上級者の試合のビデオを観察し、上級者が何を一体しているのか、どのように相手をとまどわせているか、、、などをしっかり観察することから始めたいと思う。 思うに、練習のときにやる練習は、あれは、「練習を可能とするための練習」だったのではないかとおもう。練習自体を目的とした練習である。 英語発音でも、とにかく練習が目的となってしまうことがあるが、「できるようになること」を目的としたいものだ。