December 2007
はぜ走るのか
世界というのを考えたとき、色んな文化があり、色んな国家があるわけだから、日本は、色んな国のうちの一つだという感覚があるが、たまに、日本 対 世界、、、じゃないかと思うことがある。もちろん、多くは単に私が日本人なので、単なる勘違いだったりするんだろうが、微妙で分かりにくいことがある。 例えば、漫画の世界を見ると、やはり日本 対 世界、、、って感じで、ダントツに日本が強いと思う。アメリカの本屋には、漫画コーナーがあるが、全部が日本発の漫画である。一冊として、ドイツの漫画とか、ルーマニアの漫画は置いていない。 アメリカのスーパーにいくと、(これは勘違いなのだろうか)、日本の野菜 対 世界って感じがする。だって、菜っ葉がNAPPA(これは中国語である可能性があるかもしれないが)、しいたけがSHIITAKE MASHROOMとか、柿がFUYUだったりする。大根がDAIKONとしておいてある。そしてその他の野菜はなんか普遍的なものばかりで、単にTOMATOだったりPOTATOだったり。外国語っぽい野菜があったとしたら、その殆どが上にあげたような日本名だ(勘違いだろうか、、、)。 口発音 対 喉発音にしても、日本(とあと東アジア諸国) 対 世界ってかんじだ。 このエッセイのタイトルは「なぜ走るのか」だが、これも日本 対 世界かなあ、、、と思う事項だ。例えばだが、私が横断歩道を渡っているとする。そのとき、自動車が待ってくれているとすると、思わず小走りに走ってしまう。 なんか、人が待っていると小走りに走ってしまうのだ。でも、アメリカ人とか、他の文化圏の人々は走らないような気がする。私がわかるかぎりでは。 野球を見に行ったとき、片方のチームのセカンドを日本人の選手が守っていた。守備に回るときに、他の選手は歩いて守備につくんだけど、彼だけが、ものすごい元気でもって、守備の位置まで走っていっていた。 走るというのは、我々の特徴なのだろうか。人を待たせたくないという思いやりのようなものを走ることで、視覚的に示す、、、ということかもしれない。 小学校、中学校のとき、体育や遠足などで、集まるときに、よく先生が嫌ったのは、遅れているのに、のろのろと歩くことだった。遅れているから走って間に合わす、、、という意味以上に、遅れていることを反省しているから、走って誠意を示す、、、という要素が大きかったような気がする。 当時、「10分遅れて、走って集合場所にいく」よりも、「3分おくれて、のろのろと集合場所にいく」ほうが、ビンタの数が多かったように思う。後者は、単に遅れただけじゃなくて、指導者の権威に対する挑戦、、、と捉えられがちだからだろう。ちなみにビンタは決まって公開制で、みんなの前で受けるというのが70年代の地方のスタンダードだった。6人ならんで、集団ビンタというすごい光景もあった。個室で1対1でビンタというのはテレビドラマとか、吉本新喜劇ぐらいでしかないだろう。 話しが全然違う方法に行ってしまったが、「視覚情報」という点で何かが似通っている。 アメリカで火事があると、消防士がかけつけてくるが、消防車から降りて、家屋に突入する間での間に、ゆうゆうと歩いている、、、、そんな場面をよく見るのだが、これはなんとなく 日本 対 世界 の違いのような気がする。勘違いだろうか。 外国に住んでおられるかた、ぜひ情報をお寄せください。 警察官や消防士さんには、せめて小走りで走ってほしい、、、と感じるが、どうだろう。
とにかくゲップエリアで色々な音を出してみる
Sさんに、これから始める学習者、口発音から喉発音への移行で苦労している人に何かアドバイスをお願いしますと頼んだら、とてもよい返事をたいだいた。 http://www.nippondream.com/tips.htm#advice3 その中で、特に良いと思ったのは、この点である。 .ゲップエリアでいろいろな音を出してみる 喉をリラックスさせてゲップエリアでとにかくいろいろな音を出していると ゲップエリアを定位置に出来るようになったように思います。 結局のところ、喉発音を実践するに、英語である必要はない。フランス語でもいいし、スペイン語でもいい。自然界に存在する音でもいいし、犬や猫の声でもいい。英語で使われている音は、無限なほどの音のなかの一部にすぎない。だから、まずは、いろんな音で実験してみてもよい。 そういう意味で、現在の英語力は喉発音のマスターには関係しないと言える。この点は、喉を受け入れてくれている人たちでも、きっと、「いやKAZさん、それはないですよ」とおっしゃるだろうが、今後も言い続けていきたいし、きっと分かってもらえる日が来るだろう。それはきっと、直接教えさせていただくような機会が将来あるならば、分かってもらえるだろう。喉発音で犬の鳴き声をやってみるのに、その時点での英語力は関係ないが、実はそれは、英語の音でも言えることなのだ。Rがいえるために、その時点の英語力は関係ない。もちろん、英語を知っていれば、とっつきやすいということはあるかもしれない。 あとSさんの返事のなかで、これいける、、、と思ったのは、次の箇所だ。 .ネイティブが車の音や鳥の鳴き声などを真似しているのを聞いて同じようにまねる 実際の車の音を真似るのではなく(それはそれでいいが)、ネイティブが真似ているのを真似る。 これはいけそうな気がするがどうだろうか。YOUTUBEなどでネイティブがそうしているビデオを探すとよいかもしれないが、ネイティブの友人や、英語ネイティブでなくても外国人の友人がいれば、協力してもらえるのではないだろうか。 英語喉をマスターしてから、ネイティブと喋って英語力を高める、、、という考えかたもあるが、もし可能であれば、英語喉をやりながらも、ネイティブと喋る(同時進行)というのも可能であればやってみてほしい。 ネイティブの知り合いがいなければ、英語喉をやっている人同士で一緒にやってみるというのもいけるのではないだろうか。 社会資本という概念を前に紹介したが、人と人のつながりから生じる有益なリソースをそう呼ぶ。 社会資本をしっかりつかって英語喉に挑戦してみてください。
剣道の試合を見て思うこと
剣道の上級者の試合を見ることができるサイトがある。全日本剣道連盟のものだ。 http://www.kendo.or.jp/picture/movie.html ここにあるビデオクリップを見ていて、色々と考えることがあった。剣道の普段で練習で大切とされていることが、上級者の試合においては、見られない点が面白いと思った。 まず、上級者、それも、ものすごい強いレベルでは、剣士が声を出していない。逆に、小学、中学、高校レベルの剣道の練習および試合では声をだすことは普通である。声がでていないと、審査員が、途中で試合をとめて注意をするぐらいだ。たまに、ちゃんと面が入っていても声が出ていなかったという理由で無効になることがあるくらいだ。ビデオの試合を見ていると、面を入れた瞬間でさえ声を出していないように思える(これは確認がしにうくいので断言できない)。 結局のところいえるのは、声を出すというのは、学生の剣道だけなのだろうか。思うに声を出すというのは、先輩と後輩の権力関係を日常レベルで生産、再生産するための、一つの装置であると感じる。声をだせよー、と激を飛ばすのは、きまって先輩だったり先生だったりする。声をださないから、負けたんだ、、、というようなことも、いうし、またバレーなどの試合でもそういう言い方をしたりするぐらいだ。 アメリカの大学院で、驚いたことがあった。その大学院には付属高校があったのだが、テニスをする高校生が、全然、練習中に声をだしていなかったことに驚いた。私が中学のときは、テニス部は声をだして練習していた。でもよく考えると、声を出していた本当の理由は、敷地がせまかったために、全員が全員、練習できない。だから、だらーんとしているわけにはいけないから、下級生が声を出すことで、真剣にやってますよ、、、ということを示すのが目的だったと思う。 小学校の時に野球部をやっていたのだが、レギュラーから外れてしまった。今思えば、たった12人のチームだったから、補欠は3人だ。練習に参加させてもらえそうなものだが、補欠の3人は、補欠として球拾いを1年間しなければならなかった。そのとき、声を出せと監督に言われたのだが、声を出すことと球拾いが仕事となった。補欠とはいえ、皆と一緒に練習させてもらえるだろう、、、と甘い期待を持っていたし、またうまくなれば試合に出れると無意識のうちに思っていた、、、が、そのレギュラーメンバーの発表で全てが終わっていたことは、若すぎて、知るよちもなかった(小学6年)。 大人となりやっぱりどう考えてみても補欠が3人なら、打撃の練習をさせてもらったり守備の練習をさせてもらったりしてもよいようなものだが、いつも球拾いのみだけだった。もともと私の小学校では、あいさつ運動というのがあって、声をだしてとにかくあいさつを、、、というのがあったから、野球部で声をだす、、というのも普通と思った。それ以上に不思議なのは、なぜクラブをやめなかったか、、、である。「一度始めたら最後まで」とか「初心を忘れるな」というイデオロギーに染まっていたからだと思う。冬でも裸足で外で縄跳びを、、、というのがあって、私はそれを達成し、一冬を越した。始めたからにはやめなかった。 いつから私たちは声を出し始めたのだろうか。昭和の初期だろうか?大正?明治?それとも、昔から声を出していたのだろうか? とにかく声をだして英語を読む、、、というアプローチがあるが、そのあたりも関係があるように思えてならない。日本語を声を出して、皆で読むというようなものもある。 音楽の時間にも声を出すように言われたが、これは納得がいく。声をしっかりださないと歌にならない。ただ一つ、非常に不思議なことがあった。声をしっかり出していると思うのに、先生が口を大きく開けなさい、、、と言っていたことだ。大人になって思えば、口の大きさは、よっぽどでないかぎり音量に関係しないような気がする。歌手を見ていると、口をそんなにいつも大きく開けているわけではない。口の開け方はどちらかというと感情によって左右されているように思える。 小学校で演劇をしたのだが、せりふをいうときに、自分としては、おおきな声をだしていたのだが、指導の先生に、「口を大きくあけろ」と、クラスメート全員の前でこっぴどくしかられたことを強く覚えている。口を大きく開けるというのは、音量の問題ではないのだろう。私はがんばって、元気に指導に従っています、、、というのを視覚的情報として、伝えないといけなかったのだと思う。 あと色々あるのだが、剣道のビデオクリップに話を戻したい。ものすごくショックだったのは、剣道が、お互いをいかにだまして勝つか、、、ということがポイントのようだったことだ。だます、、、というと言葉が悪いが、ストレートな面で勝っているように見えて、画像をよく見てみると、面を打つ前に、あたかもこてを狙っているかのようにみせておいて、相手をごまかして、そして面を打つ、、、と。 そういうテクニックは、練習ではやらなかった。めーん、こてー、、、とストレートに打つ練習ばかりをしていたから、試合でもほとんどそうしていた。 あと、足の速さ、そして踏み込める距離を一生懸命鍛えようとしていたんだけど(少なくとも2メートルぐらいは、ストライドしたい、、、というかんじ)、上級者の試合を見ていると、足はちょっとしか動いていない。相手が打ってくる、自分も打っていく、、、この二つの行動が同時に起こるのだから、そんなに遠くまで足をもっていく必要がないのだ。 ところが練習のときは、面がものすごい遠くに感じられた。 もし、私が今、剣道を始めるとすると、まずは、上級者の試合のビデオを観察し、上級者が何を一体しているのか、どのように相手をとまどわせているか、、、などをしっかり観察することから始めたいと思う。 思うに、練習のときにやる練習は、あれは、「練習を可能とするための練習」だったのではないかとおもう。練習自体を目的とした練習である。 英語発音でも、とにかく練習が目的となってしまうことがあるが、「できるようになること」を目的としたいものだ。