May 2009
コモリ的な音をなくすためのアイデア
英語喉の素材を読んでもらうと、音がこもった感じになる人が10人に2人はいるので、どうやったら直るかな?と考えた。 こもった感じというのは、馬場さんのアッポーというときの感じで、音が全体的にこもった感じになる。無理に音を喉に押し込めようとすることからおこる。 (ただしアッポー英語でも、カタカナ口発音英語よりも通じるということはいえるが、相手がそのアッポー音の意図がわからず困惑する可能性大。) 英語だぞ、読むぞと緊張するのが一つの原因。 解決法 ねっころがり、リラックスし、ネイティブがしゃべりそうな英語なまりの日本語でアドリブ的に練習する。 (1)ねっころがる? ねっころがると、首とか顔に力が入りにくい。首のまがりぐあいも、喉発音に適した感じになる。 (2)なぜ日本語? 英語だと構えてしまう。日本語だと、例えば BENTO と発音したとき、こもっていると自分で変だと気づくことができる。 (3)なぜアドリブ的に? 日本語だから、アドリブで適当に言えるはず。字を読むと緊張するので、アッポー的な響きがはいる。適当に日本語で練習。 (4)あとね、ゲップエリアは首の前のほうじゃだけじゃなくて、首の根元を断面的に考えたときの全体です。首の前の鎖骨と鎖骨の間だけをならそうとすると、音が変にこもったり、単に音が低くなるだけ。寝てやると、この弊害がうすくなるでしょう。 音声で解説しました。 www.nippondream.com/blog/komori.wav
新しい言説形成を この10年で
ZENさんのコメントをいただき、考えるところがありました。英語が聞ける、言える、そしてコミュニケーションができるという状態になるということに関してでした。 私は人生を振り返ると授業で分かった、、、という経験がありません。あるいは本を読んで分かったという経験も少ない。どちらかというと、分からんと思いながら、人とコミュニケーションしているうちに分かったという経験ばかりです。統計学でいうと、分かり始めたのは、ずいぶん前にフロリダ州立大学の鎌田先生のプレゼンテーションを聞いて、えー?ラッシュモデルってHLMでできるの?ということを知り、話を聞いたところから、あーそういうことだったのか?と分かり始めました。 ラッシュモデルとHLMって似ても似つかないと思っていたのに、実はHLMでラッシュモデルができる、と教えてもらって、えーー、そういうことだったのか!と分かったわけです。 こないだ味噌汁パックをかってきたのだけど、それは4種類の味噌汁がつくれるんだが、味噌自体は同じなわけです。具をかえるだけ。豆腐とか、アゲとかね。その味噌汁パックを買ってみたら、実は豆腐の味噌汁と油アゲの味噌汁の味噌の部分が同じだったと分かったわけです。カラクリがね。 HLMでラッシュモデルができるんなら、実際、それをやってみると統計モデルの味噌が何かが分かったわけです。なーんだ、そういうことかと。で、何が油アゲとか豆腐にあたるのかがよく分かった。そういえば、HLMでもラッシュモデルでも、同じような感じのものがOUTPUTとして出てくるなあとは思っていた。 ギターにしても中学の時の友達と話をしていて、「わしは、F#の意味が分からんから、Fで代用しようと思う」と言ったら、「おまえ、アホか?」といって、シャープいうたらこういうことじゃ、と教えてくれて以来、ギターのメカニズム、いや音楽のメカニズムが分かったと思った。ちなみに、小学校のとき6年間ピアノに通ったのに、このことが分からなかったのだが、大笑いですが。 おそらく、記号の世界をPENETRATEすることが苦手だったのだと思います。人に、こうしたらよいんだよ、やってみたら、と言ってもらい(社会資本を使う)、実際に自分でやってみる(DIRECT EXPERIENCE)の二つが起こって初めて、何かが理解できる、、、と。 でも思うんだけど、皆もそうでしょう?記号の体系って専門家じゃないと分かりにくい。記号の体系にそのまま入っていける人なんて、全人口の1%ぐらいじゃないか?数学の教科書とか、誰でも難しいんでしょう? 物事を理解したり、マスターしたりするうえで、人とのコミュニケーションが大切じゃないかということがいいたいのです(そもそも、学校で先生はそれをするために、存在するわけですが、クラスに生徒数が多くなると、コミュニケーションが不可能になるような気がします)。 英語喉で聞けるようになる、言えるようになると、*コミュニケーション*ができるようになる。世界の人と。すると、それは社会資本的なリソースが増えるということになるということだと思うのです。 歴史を語る、世界を語る人達、つまり、言説形成をしている人達はたくさんいるけど、きっとこれまで、世界の人々とのディスカッションなしに、言説をつむぎ、本を書いてきたのではないでしょうか?オピニオンをつむぎだしてきたのではないでしょうか。 この10年、色んな分野で新しい言説形成を起こすというのはどうだろう。 まあ、色々あるけど、環境問題などに関しては、日本がリードしているように思えるので、期待した。 難しい話ではなくて、日常、個人個人がやっていることが、なんらかの形で世界の社会資本(人のつながり)をリソースとして、新しい言説形成につながるというのはありえないだろうか。 こないだ日本に帰ったとき、本屋によったら、誰かが、日本人は世界の価値観なんぞ無視して、わが道を進めというようなことを書いた本がばーんと、横積みなっていた。国家の品格の藤原さん関係だったか?渡辺昇一氏関係だっただろうか?まちがっていたらすみません。 思うに、これからの10年は、我々が言説形成のリードをしないといかんと思うのだがどうだろう。 英語が聞けて、言える、、、そして世界の人と議論をしたうえで色々と見えてくるものがあるのだと思うが、それを基礎にして、新しい言説形成をする、、、と。 明治大学の斉藤さんが(声に出して読みたい日本語の人)が、藤原さんの新著?の表紙によせた応援の言葉で、この人(=藤原さん)に文部科学省の長官になってほしい、、、とおっしゃっていて、私は危機感*あせりを感じた。 言説が古すぎる*無理がある*と思うのである。 本を読んで本を書くというスタイルは、限界があると思う(本を読んで本を書く、、、これの意味わかる?え、だめなん?と思われました?)