July 2009
英語脳の竹村和裕氏がYOUTUBEにUPされている!
http://www.aera-net.jp/movie/interview/090623_000941.html AERAのENGLISH JOURNALの企画もあってか、竹村氏が発音講座をYOUTUBEにUPされていたので、コメントしたい(竹村氏は英語発音指導をされている専門家で、英語脳という著書がある。英語喉にタイトルが似ている!ドが違うだけだ。出版時期も同じぐらいだったかな?) 発音音声UPというのは、確か3年ほど前だったか、RON氏が私に発音UPを要求したあたりから始まったこの世界の流儀である。英語発音を教えているのに、本人の英語発音を聞かせないとは何事か?という基本中の基本を当時からRON氏は知ってらっしゃったということである。私の発音を聞いてくれたRONさんは、これは本物であると気づいてくれた。 まず、最初に思ったのは、竹村氏自身の英語が、ちょっと口発音ぎみなので、それを深めにしたらよいのになあということだった。一瞬、(ちょっと浅めで発音されているぞ)と頭で準備したら分かりだすという感じの英語です。もしろん、この一瞬の準備さえあれば、分かる英語だ。 例えばTHの音が正しくできれていない(動画の一つを参考)、、というか、日本人が思うところのTHだ。口の中で摩擦のようなものが起こっているだけなので聞いた瞬間、「あ、そうだこの人は日本人英語を喋っているのだ」と瞬時に「聞き所」を変えないといけない。母音の音は結構、深いところから出ているが、子音が浅い。 子音が浅くても、色々な英語があるからよいではないかとおもわれるかもしれないが、浅いからこそ、英語が通じにくいし(相手が日本人英語に慣れていれば別)、また聞き取りも100%になりにくい。 ただし、以下の動画では、英語喉がこの2年、声をからしてうったえている喉発音を、いとも簡単に紹介されている。2年前だと、私はいわゆる英語の専門家の一部からアホだ、既知外だ、なんにも分かっちゃないと、言われてきたし、へんないやがらせのメッセージを受け取ってきた(オーストラリアのお前じゃあ、おんどりゃあ IPアドレスで大学名までわかるんじゃけん、なーんちゃって。うらんではおりません。また声をかけてください。)。 また喉信者と言われつつも、一緒に、「阿呆船」に載ってくれた実践者の皆さんの応援もあり、色々と耐えてきたわけだが、なんと、ここに来て(2009年の夏)、いとも簡単に喉発音ですよとおっしゃっている。英語喉に書いているけどとか言ってくれたらうれしかったです、、、(笑)、、、 いや、正直なところくやしいです。 http://www.youtube.com/watch?v=luTTqa8EUQ8 あ、ちなみに鎖骨と鎖骨の間だけを意識すると、音がぎこちなくなります。これについては、どこかに動画があると思います(四郎さん、ありがとう http://www.youtube.com/watch?v=DoMODVQqEhw)。首の根元を平面的にとらえ、その全体を響かせます。 さて、響かせればよいならば、マイクでエコーをかけたら日本人の英語がうまくなるのかとなりますが、そうはなりません。響きで独特の音色を出すのです。その音色なしには、英語の音は出せません。あ、ちなみに、ロスで英語発音を教えられているアイコさんの昔の発音(喉に気づく前)は、ご本人も認められていますが、音が平たいためにRなどの音がでていません(特にPERSONのPERみたいな音が分かりやすいですね http://aikofreetalk.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-68f1.html) さて、その他の動画ですが、以下のENGLISH JOURNALに基づいて説明しますと、 http://www.aera-net.jp/movie/interview/090623_000941.html ◆01.有声音と無声音 有声音と無声音は英語でも日本語でも同じですから、それをわざわさ、喉に手を当てて確認する必要はありません。ただし、子音だけを発音して、それで喉が震えるかということを実験する、、、これを可能にはしますが、逆に今度は、無声音が単なる息の通過であると勘違いされてしまいます。実施、竹村先生のやりかただと、無声音が単なる息の通過になっています。 そこらあたりから子音で息を強く吐くという発想が出てくるのだと思いますが、 ◆04.子音で息を強くはく 子音では肺からの息を強め、母音だと普通、、、なんていうコントロールは難しすぎてできないでしょう。口の中で調整すると、口発音となってしまい、日本人特有のCHOPPYな英語になってしまいます。 ◆02.腹式呼吸ネイティブが腹式呼吸だというのは確実に事実と違います。これは聞きゃ分かる、見たら分かる、、、という感じですが、おそらく、喉発音からくる、重たいような、響きの濃いようなネイティブの音を聞き、ネイティブは何か特別なことをしているに違いない、、、という発想から来た勘違いだと思われます。 全く自慢にならないが、出版以来マスコミの取材の申し込みが全くない。ENGLISH JOURNALに載るなんて、竹村氏があまりにかっこよすぎる。 うらやましいにもほどがある。 いや、ロック雑誌PLAYER誌にラウドネスのニイハラ氏に紹介してもらったのが勲章だ! ニイハラさん、昨日、アマゾンから機関銃英語が聴き取れる!を送りました。もうすぐ届くと思います。コンサート中で、お忙しいとは思いますが、ぜひ読んでください!CDは30分ぐらいですから英語喉に比べるとやりやすいです。 余談ですが(竹村氏とは関係なし) 英語喉、機関銃英語で初めて注目されだしたシラブルですが、それを意図も簡単に、ちょこっととって、シラブルなんて前から知ってましたよ、みたいな言い方をするのも、かなり腹立つぞおおお。おんどりゃー!とおもーたよ。かなり、はぶてた。 実践者の皆さん、私と一緒に阿呆船に乗ってくれてありがとう。英語喉はちょうど2年前に出版されました。その当時からメッセージなどで励ましてくださっているかたがた、本当にありがとう。機関銃英語がヒットしているので、その余波で英語喉もメージャーになっていくでしょう。ですが、決して皆さんからの応援は忘れません! PS 竹村さん、英語脳の本の表紙・説明に、英語の周波数が高い?というようなことが書いてあるけど、低いの間違いじゃない?どう聞いても、英語の声って低いよ。周波数って関係ないですよ、ちなみに。
哲学的思考とは何か
哲学とは何かという問いに対しては、「根本」を問うことだと答えたい。自明なものとしている、されている、見えないものの存在を明らかにするのが、哲学的な探索であろう。 ところが、普通、哲学というと、昔の人で難しい言葉使いで書いてある本を読むこととか(1)、自分の分野にこじつけて、そういう難しい本を読んでいますよとアピールするためであったり(2)するわけだが、それは方向が違っていると思う。(2)の場合、その分野の具体的な問題を解くために読んでいるのか、単に、そういう本を読んでますよ!ということをアピールするためなのか、見分けがつかない。 そういう意味で英語喉は非常に実践的な哲学である。西洋文明、文化において当たり前とされているものを、明らかにしたからである。共著者が発見したので、私が発見したとはいいがたいが、一度、喉パラダイムがでそろうと、他にも色々なことがわかってくるが、その大きなものは、西洋人や、その他の世界の人々が変わっているというより、日本人と韓国人が異なっているということである(1)。 そしてその異なり方とは、おかしいとか、変ということでなくて、あえて難しい方向に発展しているということだ。例えば、喉発音は犬でも馬でもやっているという点において、あまりに当たり前のことである。しかし口発音には、高度なトレーニングが必要である。だから、幼児は、日本人でもできない。その芸術的発展とでもいえる口発音や、その他の文化・生理学的の違いについて、発展して考えていきたいものだ。 うんこをしながら考えろ、、、といったのはソクラテスではなく、ドリフターズのリーダー、故 いかりや ちょうすけ氏である。氏は、アイデアを書き溜めるために、トイレにアイデア帳をを置いておいたらしい。 私はうんこをしながら、なぜ、うんこをするときに、顔に力が入るのか?を不思議に思っている。よく考えてみると、力をいれなくても、でるものはでるのである。さらに根源的に考えてみると、その瞬間に息をとめているのである。 これこそが、日本人、そして朝鮮語話者の身体性ではなかろうか。日本人には痔が多いというかんじがする。アメリカで痔の薬の広告をみたことがない。力みすぎかもしれない。 なぜ日本人のゲーム番組(昔で言うならたけし城、今なら、なんだったけ?色々な障害物を克服する、、、さすけという番組だ)が、世界で受けるかというと、我々が痛がるときの表情が、非常に独特らしい。 先日、日本人の真似の仕方というのがYOUTUBEであったのだが、おおげさに顔に出して痛がるのが日本人であると言っていた。 http://www.youtube.com/watch?v=z19r9THJIlc&feature=related そういえば、そうだ。私は2日に一回は大きな声で いてててえ と言って顔をしかめることがある。そんなに痛くなくてもだ。 うんこにしろ、痛がるときでも、我々は息を止めて、顔が、体が、緊張しているのではないだろうか。 一体、これはどこから来るのであろうか? そして、よく考えると、仕事などで緊張するときに、顔、いや首より上が緊張するのである。すると口発音ぎみになってしまうのだ。 一体、これはどこから来るのであろうか???? 身体論というのがあるが、自分達が自明とする体の動かし方、反応などが、実は社会化の結果である、、、ということをとことん追求するのが身体論である。決して、身体論について外国人が外国語で書いたものを、難しげに引用して、煙に巻くのが身体論ではない。また、法政大学の斉藤先生(漢字OK?)が言っているように、声に出して国語の本を読むのが身体論の応用ではない。 いや逆である。声に出して読む、、、というのを推進するのが、身体論ではない。声に出して読むとよいよ、と胡散臭いことを誰かが言ったときに、なぜそれを信じたりするのか?その歴史性を問うことが身体論である。英語をとにかく音読せよ、、、などというアプローチなども同じだ。 身体論とは、まずは自分自身の身体、喉、顔、などなどを根本的なレベルで考え、その動きを制御する文化コードを突き止めることである。 一つ、同じことを外国人がやっているのか?ということを比較してみるのもよい。海外旅行をするのもよい。 うんこを論じたので、もう一つ書いておく。こないだ日本に帰ったら、どこにいってもワッシュレットがあった。お尻を洗ってくれるあれであるが、アメリカには、そんなにない。というか、アメリカ食を中心に生活していると、犬がドッグフードを食ったときに出す、ころころとした切れのよいウンコしかでない。だから洗う必要がない。 アジア食を食べたりすると違う(特に米)。だから、アメリカに来て、ワッシュレットがないんですね?と言うのはナンセンスなのである。そういうのはいらないのである。 こういうことを考えるのが哲学的思考である。