信じることは現実になる
、、、わけがない。ところが、留学や進学をめぐるディスコースはこのような精神論で一杯である。 昨日、アメリカのテレビで「北の零年」という映画を見たのだが、このなかで父役の謙さんが、娘さんに「信じることは本当になる」といっているシーンがあった(http://d.hatena.ne.jp/haruo7/20060326)。また、あるメーリングリストで留学指導をしてらっしゃるかたの記事で、信じれることは現実になる、、、という内容のものを読んで、なぜか悲しい気がした。 信じても、現実にはならない。鉄が金にならないのと同じである。 もちろん、意図は分かる。勇気がつくだろう。そう信じれば。ところが、信じても現実にはならないのだ。 例えば日本で弁護士になりたいとする。信じても通らないのだ。3%しか通らない試験であれば、97%は落ちるのである。医者になりたいとしても、数字的に枠があれば、どんなにがんばってもだめなのである。 こういう勉強したら通った、、、という助言は意味がない。同じ勉強法、量をやっていても落ちた人がたくさん97%の中にいるからである。 「信じることは現実になる」という言説のカラクリは何なのだろう。 社会人、大人になると信じただけではだめだ、、、ということがわかる。自分にスキル、知識、経験をつけないと、仕事は終わらない。仕事ができないと、次のキャリアのステップに進めない。ところが、子供、生徒、学生に対しては、信じることは大切だ、、真顔で言ってしまう。 まずは機会を保障すること。点数による足切法(足、、、というより頭か?)はやめてほしい。ある一定の能力を定め、それに達していれば合格にするべきである。上位10%をとるというようなやりかたは、憲法の機会の均等の原則に反している。 だいたいその10%とか5%とかを決定している人たちは「何様」なのか。それでは社会主義ではないか。そういう方針を死守している人たち自身に、ぜひ、その人たちが守っている資格試験(弁護士試験など)を受けて、その結果を発表してほしい。 3%、5%、10%しか通らないというような試験の下ではがんばってもだめなのである。 そのような足切り(頭切り?)試験は、国民をお互いに敵とし、競争心をあおり、全然、建設的ではない。おまけに試験のあとは、その受験の知識があまり役に立たないというではないか。 手段としては、英語をやり、日本にいながら、ネットなどで海外の教育を受けたり、資格をとったりするしかないではないか。
コメント
コメントをいただいていたのに、この数週間、ほったらかしにしてしまいました。ごめんなさい。ものすごい量のスパムメールで、400通ぐらいのメッセージに埋もれてしまっていました。 一つだけお答えするとFATHERとFARTHERはイギリス英語では同じに聞こえる、、、というご指摘。3ビートに分けると違いが分かりやすいです。 片方はFAR-THER、もう片方はFATH/THERです。微妙ですね。大げさに発音されているばあいは聞こえにくい違いでしょう。 ただ、イギリス人に実際に確認していません。もしお知り合いがおられるようでしたら、確認してみてください。 スパム対策として、文にhref=という単語が含まれていたら、削除されるように設定しました。スパムのメッセージにはこの単語が現れるからです。もし、普通に(いじわるでない)メッセージを送ったのに採用されなかったということがありました、ご連絡ください。
カエルの合唱
話を始める前に、こんなことを紹介したい。アメリカで働いているので、英語ばっかりなのだが、たまに電話で会議をする。そのときに特に思うことがある。アメリカ人の英語が男も女もがまがえる、うしがえるのような声なのだ。ちょうど、広島の田舎の田んぼで夏にがーがーいっているカエルの声に似ているように思える。 電話の音声だから、喉発音のある特徴(びりびりした感じ)が強調して聞こえるのか?あるいは、電話会議の参加者は皆、相手が見えない。だから、大げさにしゃべらない?から喉に95%頼るのか??? 一度聞こえ始めると、やはりカエルの合唱のようである。 *** 2年ほど前、人類学者2人(1人、日本文化研究をしているアメリカ人、1人日本人)に、しかられた。日本人でもネイティブと同じ発音ができるようになると言ったら、そんな必要はないと言われた。日本人には日本人の発音があってよい。世界の誰でもなまっているではないか、、、。 日本人の英語が聞きにくかったとしても、世界の人はがんばって聞き取らないといけないのだ、、、と。 喉発音のことを先に言うからいけないのかもしれない。わざと黙っておいて、3ビートから始めるのがよいかもしれないと思い出した。 英語にはシラブルというのがあり、例えばSPRING ROLLは2シラブルです。これを日本人は6シラブルで言うから通じないんです、、、と。 これは英語のカタであるから、これにまさかたてつく人はおるまい。日本人以外のほとんどの世界の住民(中国人も含め)が2シラブルでいう単語を、いや、私は8シラブルで通す、、、という人はいないと思う。 中国人の場合、確かに口発音であることは同じだが、シラブル(少なくともシラブルの数)は正しく発音しているのだ。さらに、中国人の場合、英語圏に長く住んでいると、喉発音になってくる人が多い。また映画などでも聞けて、理解できるようになる。だから、例えば米国のプロの世界には中国人がたくさんいて、当たり前のように英語を使いこなし、大活躍をしている(そしてその人たちが祖国へ帰りビジネス界で大活躍を始めている、、、日本人も喉と3ビートさえやれば、留学後、海外で仕事の経験をつむことができるのだが、、、)。 喉、喉、、、というと、人の癇癪にふれることがある。たかが声じゃないか、、、と思われてしまうからだ。実際は喉を始めるとよくわかるのだが、ネイティブ同士はウシガエルが鳴くような音で音を区別し、会話をしているのだ。ただし、喉をやる気が無い人には、ぜんぜん、こういう話は通じない。口だと思い込んでいるから、喉の音をけずって聞いてしまうのだろう。また、やはりネイティブ同士の英語を聞かないとこの音は分からない。 一度、喉のことは言わないで紹介してみようと思う。実際問題として、LとRができなかったり母音の区別ができなくても、3ビートさえできれば通じるからだ。 喉を先に言うと、馬鹿にされたような気になるかもしれない。だって、日本語の音は平たく、英語は立体的というと、価値的に英語のほうがかっこいいとかセクシーだ、、、という感じで、馬鹿にされているように聞こえる。ただ、これは主観的なことだ。平らな音のほうが、日本文化のコンテクストのなかでは、謙虚さ、誠実さを出しやすい(英語のコンテクストでは音の平らさ、というか、それに付随する「短さ」は不快感・怒りを示すので注意がいる)。 芸術的な観点から見ると、口発音のほうが手が込んでいる、、、ということを知っておいてほしい。高度なレベルのアートである。さらに、喋る相手との権力関係によっては、口発音度を高めるわけだから、またしても手のこんだ記号体系である。この芸術的に高度な発音法を私は誇りに思う。さらに、喉発音をマスターすれば、英語は英語らしく、日本語は日本語らしく話すことができる。二つを完全に区別し、それぞれの言語に誇りをもちながら喋ることができるのである。 逆に、喉発音は犬でも牛でもしていることだ。喉発音をマスターしたければ、覚えてきたこと、社会化されてきたことを一度捨ててみることだ。幼児のときは、皆、喉発音だったのだから。 人類学にはエスノグラフィーという手法があるが、これは、現地に混じり、現地の人の文化を観察する手法だ。口発音で西洋文化に入っていくと、現地の文化がわかりにくい。観察する相手が、観察者の喋り方に影響を受けてしまうのである。あ、この人は外国人だな、自分の文化を共有しないな、、、と無意識に思ってしまうのである。喉をつかって西洋という現地にはいるならば、それまで気がつかなかった西洋が見えてくる。