チーズはどこへ消えた?
チーズはどこへ消えた? (単行本(ソフトカバー)) 日本語版 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/459403019X/helloworld0f-22/ref=nosim 英語版 http://www.amazon.com/Moved-Cheese-Amazing-Deal-Change/dp/0399144463/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1204131275&sr=8-1 新しいことに挑戦することの大切さを説いた本で、ビジネス界ではかなり読まれているらしいです。私も昨日読みました。上司が、読んだら、、と机の上においておいてくれたので。 著者のサイト http://www.whomovedmycheese.com/ 変化に対応することの大切さを教えてくれます。 喉の影響でいろいろと社会の様子が変わってくると思いますが、とりあえず数年は、喉実践者が文句なしに英語が上達し、英語の試験などで良い点をとり、英語ができるから、、、という理由で優位に立つことができると思います。優位というのは、就職とか、受験とか、転職とかにおいてです。受験でいえば、来年の受験までに喉でやっておけば、喉実践者とそうでない人の差がダンゼンつくと思います。 ところがですよ、5年以上を見越す必要があると思うんです。喉が普通になり、英語ができるのが普通になった世の中を今から見ておいたほうがよい。日本がスウェーデンとかみたいになるわけです。英語ができるのが当たり前であり、誰が誰よりも英語がうまい、、、とかいうことは大切ではない社会が来るでしょう。 短期的にみると(3年ぐらいの視野で考えれば)、喉は「お得」です。試験などで、他の人よりも良い点が取れるようになると思います。ところが、日本、韓国、中国以外の国を見たときに、英語の試験の点を気にしている人たちは少ない。 私でも、履歴書には英語、日本語、スペイン語としっかり書いていますけど、スペイン語のテストの点とか資格とか書いていません。それは米国の労働市場において、外国語が喋れることは、それほど特殊なことではないから、試験とか気にしないのです。 例えばですが、短期的に考えて、英語自体を専門にしたとします。それはそれでもちろんよいことですが、5年後の日本社会では英語を喋れるのは当たり前になっていると思うので、そのときに、英語の専門ということがどういう意味を持つか、、、この当たりは不透明です(米国で英語の専門というと、英語自体というより、書く力がある、、というのが求められますが、そういうレベルまで達する覚悟で英語を専門とする必要があるでしょう。) 英語を道具としてとらえ、その道具を使って何をしたいか、、、を考えるとよいのではないかと思います。 とかくと、なんとなく若者向きのアドバイスという感じがしますが、年齢は関係ないと思うんです。今やっている仕事(とか趣味を)をなんとかグローバルなレベルに持っていくとか。 特に若者の場合、グローバルにもっていかないと、困るんじゃないかと思います。多くの会社が若い人を採用していないような気がしてなりません。 日本がスウェーデンのようになる、、、と書くと、血迷ったか、、、と言われます。最近、聞いたのですが、ある作家のかたが、英語ができるようになることは、「日本人の民族的悲願」と言われたそうです。 喉(と3ビート)さえ通過すれば可能なのです。到達が。 英語耳の著者の松澤さんのサイトで、チェコを訪ねたエピソードが紹介されていたんですけど、チェコではタクシーの運手手さんとか、いろいろな人がものすごく英語がうまかったそうです。どこで勉強したか、、、と問うと、「学校で」とおっしゃったそうです。あたかも、「え、ほかのどこで学ぶの?(特別な勉強はいらない、、、みたいなかんじ)」とかいうかんじのニュアンスだったそうです。 チェコの人は家に帰って猛烈にシャドーイングとかしていないんです。もともと言葉が喉発音、3ビートだから、学校で学べば、ある程度でいけるわけです。そもそも聞き取りとか最初っから聞こえているんです。 日本もそんな感じになっていくでしょう。 ただし、もう一つ本がいるとは感じています。文法の本です。ヨーロッパ的言語の勘、、、というのがあるんです。例えばTHEの使いかたとか。私はあることを共著者に教えてもらったんですが、それ以来、THEで間違うことがなくなりました。 喉+3ビート+使える文法 これでかなりいけると考えます。民族的悲願は達成されると思います。
喉サミット
喉サミットをやりましょう、、、とあるかたがおっしゃった。もし喉サミットができたら、こんな話をしてみたい。 *** 喉は単に英語だけの革命に終わるのであろうか。個人の英語力が伸びるだけだろうか。 喉をきっかけとし、日本国全体の国力が高まることを期待している。その国力とは、個人が自由に好きなことを追求した結果、個人それぞれに蓄積する技術力、能力をさす。そして、それらのタレントが、もっとも適した場所を見つけることで、非常に健康な経済が生まれる。 一言でいうと、個人としては二つのことを考えていればよいということになる。 1)自分が何がすきなのかを発見 2)その好きなことをするために、お金を払ってくれるところを見つける(あるいは、あっちが見つけてくれる) そのような経済においては、人々が楽しく仕事をし、そして自分の得意なことを生かすのだから、最強の生産性が生まれるだろう。 さてなぜ喉が革命の原点となるのか。そのあたりを書いてみたい。 あらゆる分野の知識を解放しよう 何かをやってやろう、マスターしてやろう、、と決意して本を開いたとき、わけわからん、、、ということでは、塾や専門学校に行けるものだけが、自分の好きなことを発見できる、、、ということになってしまう。できるだけ多くの分野の知識を解放し、誰でも何でも学べる、、、というインフラを作る。 こないだ高校のときの数学の教科書を開いたら、めまいがしそうになった。これではだめだ。自分自身、数学がいやだったはずだ。自分のせいではなかったと確信した。なぜか数学の知識が牢獄に閉じ込められているのである。 学問だけではない。リーダーシップとか、芸術など、いろいろとある。観光案内とかでもよい。 とりあえずは、今、自分に得意なものを考えてみる。そして、自分はなぜそれができているのか、それをどうやったら他の人に教えられるのか、などを考えるのである。 がんばれとか、そういう精神論は言わないほうがよいと思う。そういうのは、教え方が分からずに学習者がむずっている状況に、「渇」をいれる効果があるだけだと思う。渇をいれられても、面倒なものは面倒だ。小中高の授業で渇をいれられたことはよく覚えている。にらめつけるように先生をみて授業を受けるべし、、、と中学のとき社会の先生と理科の先生から指導を受けた。社会のテストでたまたま先生が黒板にかかずに口頭で伝えた事項を、クラスで私だけがテストで合っていたということが一度あり、先生が「それは上川がものすごくまじめに授業を聞いているからだ」と全員の前でほめてくれたほどだ(先生、ごめんなさい、あの問題はたまたま市販の問題集に載っていたから知っていたんです。)渇をいれられつづけたためか、私は分からなくてもうなづいてわかったふりをする癖がついてしまった(今でもぬけない)。あとで教師となり、生徒が聞いているふりをして内職をしていることは、ある程度当たり前のことだということを知った(というか知っていたけど)。(それから、最近、中国でも韓国でも内職は当たり前、、、というか、学習法の第一のアプローチである、、、ということを知り、みんなで大笑いになった。中国の同僚は、学校にも行かなかったという。家で勉強してたそうだ。親が先生だったから。) 少なくとも私自身は、「わからんこと」になれきっていた。授業に行く。教科書を見る。わからん。先生の話を聞く。分からん。問題集を読む。わからん。参考書を読む。わからん。 今までの人生で本当によくわかったのは、プラモデルの組み立て説明書だけだった。順番どおりにつくっていれば、完成する。 中学、高校となると、急にわけがわからなくなった。大学に進むともっとわからなくなったが、これは全く別の事情が絡んできた。中学、高校では少なくとも、何か取り組むものがあり、そのやり方、解き方が分からなかったのだが、大学になると取り組むもの自体が無くなったような気がする。具体的にいうと宿題もなかったし、課題もほとんどなかったし、試験は年に2回しかなかった。課題も試験も、やっても、なにも返って(高校までは少なくとも答案が返されたので何が間違っていたかが分かった)。卒業まぎわに、図書館前を歩いていたら、経済学部の学生がゼミ論文をさっき提出した、、、と友人に話しているのが聞こえた。「ラッキー、先生に何も言われなかったよ」と喜んでいた。また英文科の友人が、「修士論文出したけど、何も言われなかった。日ごろからまじめにやっているから、認めてもらっているんだと思う」と言っていたのも思い出す、、、。 ** 知識を解放する。今、ある程度できている人が、リーダーシップをとり、難しいと思われている知識を折の中から出す。そして、誰でも、その知識やスキルを簡単に学べるようにする。そうすれば、人々が比較的簡単にいろんな分野を知ることができる。そうすれば、自分が何がすきなのか、どんなことができるのかが、わかりやすくなる。 わが国では少子化がすすんでいるので、上に書いたことを単に若者に押し付けることはできない。年齢にかかわらず、また現在の職業にかかわらず、このこと(下)を問い続けることは大切ではないだろうか。 1)自分が何がすきなのかを発見 2)その好きなことをするために、お金を払ってくれるところを見つける(あるいは、あっちが見つけてくれる) あ、なぜ喉が革命の原点となるのか、という点ですが、喉は、知識の解放をやっていると思うのです。例となるのではないでしょうか。
トンネルを抜けると暗記問題だった
従来の英語発音の練習は暗記問題だとは思われていない。どちらかというと体育会系のトレーニングだと考えられてきた。 従来のトレーニングは実は姿形を変えた暗記科目であったということを指摘したい。 従来のトレーニングは、逆説的ではあるが、誰でもできること、、、が教えられている。 音の強弱 人類であれば誰でもできる 音程の上がり下がり 人類であれば誰でもできる 音を伸ばす 人類であれば誰でもできる 唇を丸める 人類であれば誰でもできる 舌を口の屋根のある部分につける 人類であれば誰でもできる やたら強く読む 人類であれば誰でもできる 激しく摩擦を起こす 人類であれば誰でもできる 毎日続ける 人類であれば誰でもできる ただし、これらの誰でもできることをやっても、決して正しい英語の発音ができなかった。 それは英語音の核となる喉のことを忘れていたからだ。それから英語のリズムの基本となるシラブル、そしてシラブルの仕組みを事実上無視していたからだ。(例外的にシラブルが教えられている場合でも、それは発音に関することのようで、特定のシラブルの組み合わせをとにかく繰りかえす、、というセットアップである。) 上に列挙した数々の項目は、我々を出口のない勉強へと導いた。そしてその勉強とは、実は暗記問題だったのである。何億もの組み合わせが可能な文章、そしていろんな読み方が可能なのに、上に列挙した項目で説明を加え、主語だったら強く読むとか、意味的に大切だったら強く読むとか、そういう風に、矛盾しているルールをむりやり押し付けて、何億もある文を練習する、、、という、とてつもな巨大プロジェクトに、国民が借り出されたのである。 これは英語だけのことだろうか。我々はさまざまな分野で姿形を変えた「暗記問題」という怪物に自由を奪われていないだろうか。 憲法の保障する「学問選択の自由」、「職業選択の自由」がこの暗記問題という怪物によってないがしろにされていないだろうか。 医者になって人を救いたいと思ったことのあるあなた。あなたの職業選択は保障されているだろうか・いただろうか。 法律を勉強して世のためになりたいと思ったことのあるあなた、あなたの職業選択の権利は保障されていただろうか、いるだろうか。 我々はあらゆる知識を暗記問題に変換することで、憲法が保障しているはずの学問、職業選択の自由を、制限していないだろうか。制限されている、、、とは分かりにくいかたちで。 「自分で選んだんだろう。始めたことは最後まで、がんばりぬけ。」という言い方をよく聞く。「初心を忘れるな」という言い方もよく聞く。 本当に、最初に自由な選択があったのだろうか、あるのだろうか。