教育実践・言説の脱構築
「基礎」と「応用」の区別の脱構築を

基礎、そして応用とは何か? 英語発音においては、口の動かし方がこれまで基礎と思われていたので、それをおおげさに動かして練習していれば、応用もできるようになると思われていた。ところが、口の動きはどちらかというと、基礎ではなくて、感情表現に近いものがある。大げさに相手にメッセージを伝えたいときに、口が大きく動くのだ。 ねいてぃぶが普通に喋っているとき、口はあんまり、おおげさにはうごいていない。現実を描写する要素の強い映画を見ているとよく分かることだ。 基礎とは、どんな状態のときでも存在する部分を呼ぶと思う。 英語発音、聞き取りにおいての基礎は喉と3ビート。それだけである。それ以外に注目すると練習が難しくなる。気が散るからである。イントネーション、音の長さ、強勢などに気がとられると、喉音、3ビートが聞けなくなるのだ。 さて、他の分野でも「基礎」と「応用」はあるが、その定義、実践は正しいだろうか。 剣道におけるおおげさな素振りは基礎と言われるが、試合において、大げさな打ち方をするならば、すきができてしまう。そういう意味で、素振りは実は基礎ではない可能性がある。練習にも、試合にも共通して大切な部分が基礎であるはずである。 中学や高校の数学などではどうだろう。基礎的な問題と応用問題の区別がある。違いは一体なんなんだろうか。経験的には、基礎のほうは、答えがすぐ書いてある?応用のほうは、文章題的だったり、答えが書いてなかったり。 厳密にはどうなんだろうか。  

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教育実践・言説の脱構築
学習の場における実践、言説の脱構築を

ファンダメンタルなレベル(表層でない)での文化コードの脱構築を。 アメリカである恐ろしい光景をみたことがある。 教師が、生徒に教科書のまとめを書かせていた。同時に、教師は、何かを解説していた。教室は静かで、あたかもなんの問題もなく時がすぎていた。 ところが、絶対的に変なことが起こっているのだ。生徒は教科書をまとめているのだから、静かに作業しているが、教師の話は当然聞いていない。ところが教師は、なにかの説明をどんどんしている。生徒が静かにしている=集中している、、、、=自分の話しも聞いている?と思っている? これは異常な例かもしれない。ところがこんな風景も見たことがあるし、体験したことがある。説明は次のセクションのことに写っているのだが、生徒は、直前に説明されたことをノートに必死に書いている。これは、アメリカでも見たし、日本のでも体験した。 静かにしている=集中している=授業がうまくいっている 、、、という解釈は文化コードである。 最近では、コンピュータを使って授業をすすめるだけでなくて、コンピュータのつくりだす環境の中に、実際に入り込んで、授業をするというシステムがある。そういう空間では、理解する、意見を述べる、学ぶといった大切なことを、実体験できるようだ。

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教育実践・言説の脱構築
内容 VS 発音

英語をよい発音でぺらぺら喋るよりも、内容が大切だという考え方がある。 一理はあるだろうが、内容というのは、誰でも持っているものだ。例えば、音楽が好きな人は、自分の好きなバンドについてよく知っているだろうし、映画の好きな人も、映画についてよく知っているだろう。 昔読んだ本で、チョムスキーの本に書いてあったが(CHOMSKY READERだったと思う)、スポーツの人がスポーツについて語るとき、ものすごいよく知っていて、分析能力もあったりする。その知識レベルは、いわゆる知識人と言われている人たちの、レベルと、トピックは違うにせよ、そう変わらない、、、というようなことを言っていた。 内容はすでに誰でも持っているということのよい例だと思う。 でも、きっと「内容 対 発音」という二項対立があるときには、その内容は日本文化を説明できる力とかそういうことなのだろうか。スポーツとか、映画じゃなくて。 (そういえば、確かに、自国の文化、特に歴史に激しいほど詳しい外国人にたくさんあったことがある。そういう力を持つことは素晴らしいことだろう。ただし、その説明が本に書いてありました、、、ということだとちょっと困ると思うが。自分で生み出したほうがよいだろう。というのは、本に書いてある説明というのは、典型的すぎたりする。)  内容 VS 発音(あるいはペラペラの会話力)は、実は、これまで英語が難しかったということで誕生した言い方だと思う。英語喉により、喉で音を真似し、3ビートを意識すれば、英語がそれほど難しくなくなるので、この言い方は薄れていくのではないかと思う。 役に立ちそうで、役にたたない「言いよう」ってのが結構ある。小論文の書き方に興味があり、ちょっと、勉強したりするが、たくさんの「言いよう」があるんだなあ、、、と、言説空間を眺めてみて感じる。 起承転結 ってのは、非常になやましい。思うに、よい小論文というのは、「よい」からこそ、起承転結に感じられるのであり、起承転結を意識して書くぞと望むから、よい小論文になるのではないような気がする。 ずれてしまったが、「学習」、「学ぶこと」の言説空間を、ちょっと客観的に眺めてみることが大切ではないかと思う。 ただし、客観的になるのは、ものすごく難しい。たいてい、学習者というのはその知識の分野がよく分からないから、学習中なわけだ。だから、その立場から、言説空間を眺めるのは殆ど不可能に近い。 とすると、残された手立ては自分がある程度分かっている分野に関しての言説空間を見るとよいのかもしれない。

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