大学時代によく読んだ本はニーチェとフーコーだけど、ますます、このニーチェの系譜からくる哲学の重要性が増している。そして、それは学問的なことではない。混迷の21世紀を生き抜くため、我が身を守るための哲学としてニーチェ、フーコーが重要になってくる。

哲学は読んでいるどころではない。実践するものに、いや、自分の身を守るための武器?いや、スキルになってきているのではないか?

私の記憶の中では、ニーチェは、人は、何か難しいものほど理論化(知の言説形成と言える)したがるということを指摘した。そしてフーコーは例えば、監獄の歴史とか、病院(クリニック)の歴史、、、といった普通の歴史家が扱わないようなもの、実践、知の歴史をたどったのだが、例えば、大昔は、監獄に今の時代では別の場所にいそうな人が集められていたという。例えば、いまだと精神病患者は病院に、犯罪者は監獄に、、、と別れているのだが、大昔は一箇所に集められていたというのだ。

そして、例えば、その集められ方は当時の分類法に基づいている。その分類法自体は当時の常識ともとれるもので、無意識なる分類だったりするから、パラダイムと呼べるかもしれない(そのパラダイムは必ずしも、強いものから弱いものに押し付けられるものとは想定されていない。そもそも、フーコーはそういう大きな社会理論をつくろうとしたわけではないらしい。)

なぜフーコーはそんな人達の歴史を扱ったのだろうか?勝手な、また月並みな想像であるが、彼自身がゲイで、ゲイは一昔前は社会の辺境者的扱いを受けており、例えば、世間、いや心理学者が、ゲイの人達は、幼少のころに何か問題があったのではないかとか、勝手なことを理論化して、ゲイの人達を説明しようとした。つまり勝手に「知」を形成していたのだろう。今では人口の何%かは、ゲイの人口がいるのは普通であり、またアメリカにおいては、彼ら、彼女らの活躍が目覚ましい。例えば男性だけど、感覚的には、女性の感覚も持っていて、アルゴリズム的な考えも(男性的感性)、またマルチタスク的なこともできる(女性的感性)、、、というように、仕事の世界における活躍がいちじるしい。

中国の大昔のカレンダーには、現代の我々には全く想像もできないような物事、動物など?の範疇が説明されているという。人間は勝手に動物、人間、社会に知識によるレッテルを貼ってしまう。そのレッテルは勝手な分類だったりする。

我々、現代日本人は、勝手なレッテルによって、我が身を誘拐されていないだろうか?

共同親権?そんなものいりません。日本では離婚後は伝統的に片親が面倒を見るものです。それが日本の文化です。

捕鯨?日本固有の文化であります。あれは魚です(と解説しつつ、バックに明るめの音楽をながすこと)。

英語?日本人はまず日本語をやるべきです。英語と日本語を小学校で両方やると、両方、身につきません。

11歳までに言語を学ばないと、一生マスターできません。

人間は正社員と非正規社員に分かれます。

運動中は水を飲んではいけません。体がばてます(ふるいか?)。

精神力で勝つのです。

声を大きく出して美しい日本語を読みましょう。

論理力が大切です。

我々は言説に、言説自体に誘拐されているのではないだろうか?

いや、厳密には、言説を本気にとる人が99%。本気にとらないけど、99%の人口が本気にしている、アホなやつらだなあ、と思いつつ、言説を操り、信じている人達をあやつるエリート集団(て、ちょっと陰謀説?)

言説は特に男を弱体化、草食化させる。勉強しましょう、練習しましょう、覚えましょう、がんばりましょう、やる気が大切、blah,blah,blah,,,声に出して読みましょう、大切なところには赤線を引きましょう、、、論理が大切です、、、出直してください、、、古典を読みましょう、、、

赤線を引いたり緑線を引く暇があったら、腕立て伏せをしろ、こら(笑)。

自分を、そして自分たちを取り戻すには、まず喉で発音し、感情を胸で感じることである。そして胸で感じた感情を口発音に還元することなく、豪快に表現しよう。いや、豪快である必要はない。上半身を緩めておくと自然に豪快になるだろう。

自分の声をみつける、、、というのは菅原里奈先生の言葉であるが、自分の声を見つけることは、自分の感情を見つけることである。そして、それは自分自身を見つけることでもある。

自分自身を見つけたと思ったら、あれ、これは方言で喋っていたころに自分じゃないかと思うこともあるだろう。

韓国人が豪快に会話している。あれ?あの豪快な感じは、標準語に触れるまえに、自分が方言で喋っていたときの感じだ。

心が頭というより、脳というより、「胸」にあるということがわかる。胸も心も、発話、笑い、泣きなどとともに、響くからだ。

心を胸にとりもどす=自分を取り戻すということではなかろうか????

 

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4 thoughts on “ニーチェ・フーコーの系譜と心の位置(=胸のあたり)

  1. Masa says:

    かず先生

    喉発音だと、その胸その心の動きをダイレクトに音声に込められのでしょうね。先生も感情を喉発音に込めることの大事さをおっしゃってましたですものね。

    一昨日ニュージーランド・クライストチャーチの地震のニュースを観ていて、ある白人男性が倒壊した建物の中にいる奥さんと携帯で話し、励ましている映像が流れました。以前なら字幕を見ないと会話の内容がわかりませんでしたが、今は字幕を見ずともストレートに言葉が入ってきただけでなく、彼が奥さんを愛する気持ちが痛いぐらい伝わってきました。
    私自身も阪神淡路大震災をど真ん中で経験し、その時は色々あったのでよけい分かるのもありますが、しかし今までそういう海外の報道を観たときは、そこまでびんびん同苦する気持ちにはなれなかったのです。
    いや、日本人に関する報道でも、ああ気の毒だ、どんな思いだろうとは思いましても、今回ほどではなかったのです。
    彼の溢れだす感情が喉発音の声に込められ・・・いや籠められていたからこそと思います。そして彼を物凄く身近に感じました。
    電話が途切れた直後に彼は希望が悲しみを駆逐する瞬間の表情で、周りの人達にこう叫びました。

    She is alive!!

    この言葉が英語としてではなく、魂の叫びとして感じられました。

    私は今職場ですが、先ほどBGMにEric Claptonのライブアルバムをかけてました。その中でも彼の4歳で亡くなった息子さんを追悼するTears in heaven はその子の魂を永遠ならしめんとする親の愛情が声を通して伝わってきて、あらためて感動しました。何度も聴いた曲なのに。

  2. 上川一秋 says:

    マサさん

    全くそのとおりです。昨日、高校時代のことを思い出していて、高校の近くの楽器屋の兄ちゃんと話しているときに、クラプトンのWONDERFUL TONIGHTがかかり、「いい曲を聴くと涙目になる」などと言っていたことを思い出しました。でも、当時は、歌詞を聞いていたのではないと思います。

    昨日もテレビでクウェートのアメリカ軍を前に、ケイティーペリーとか、SUGARLANDが歌っていたけど、1字1句聞き取れて、また管楽器のような声色にうっとりしてしまいました。

    そして、日本語に訳せば、「兵隊さん、お国のためにありがとう。」とちょっと硬くなるけど、英語のまま聞くと、本当に感謝している気持ち、そして皆愛してるよ~~~って言うときの気持ちが伝わってきました。

    日本語のままだと愛国心も、ちょっと社交辞令的になるかんじです。よく愛国心が薄いのは日本人だけと言うようなことを聞きますが、確かに、アメリカや他の国では強勢させたわけでもないのに、右翼だろうと左翼だろうと、中道であろうと、自然に出てくる気持ちのようです。

    私もニュージーランドのニュースを見ながら、OH MY GODとか、喉がゆるんで言葉になってしまいます。前から気づいていたのですが、嫁はんのジーナが、ニュースでなにかひどいことが起こったら、いちいち、反応しているのです。

    ダーリンは外国人という本でも、ダーリンのトニーさんが、テレビを見ながら、感情的に反応しているのです。

    それは体をリラックスしていると喜怒哀楽が自然と出てくるのだと思います。

    音楽というのは、気がついてみると、人生の喜怒哀楽を表したものですよね。アメリカの音楽界では歌詞がよくないと売れません。TAYLOR SWIFTなどは、ものすごく若いのに、高校時代の女の子の気持ちをうまく表した歌を連発で、それは歳をとった人でも、昔を思い出して、わかるわかる、、、と感動しているのです。

    それに比べて、こないだ紅白歌合戦で若手の歌を聞いていたら、「がんばっていたら、いつか夢がかなうよ」というような説教じみた歌詞を口発音で歌われても、ぽか~~~んって感じです。

    がんばってもダメだ、、、って歌詞のほうが、現代人の心にしみるのではないだろうか。人生ってがんばっても難しいことがたくさんありますよね。

    ERIC CLAPTONの例の歌ですが、思い出すだけでジーンときます。時々、嫁はんのジーナが自動車で音楽をかけるときに、その曲やめといて、今、それ聞いたら滅入る、、、とか言うときがありました。それは、ボブディランのNOT DARK YETとか言う歌です。

    私は、喉革命がおきてもしばらくは、喉声を伝わってくる感情のひだを聞いていなかったのだと思います。歌は短調だったら悲しい、長調だったら楽しい歌と思い込んでおりました。

    そのボブディランの歌は長調の歌なのですが、内容が暗いのです。喉を伝わって感じることのできる相手の感情の音色を聞くと、

    歌の素晴らしさが

    分かる!

    これはYOUTUBE動画ですが、なぜか私がクリックしたときは、ゆっくりのダウンロードで見れませんでした。
    http://www.youtube.com/watch?v=RZgBhyU4IvQ

  3. 上川一秋 says:

    NOT DARK YETの歌詞がありました。

    http://www.bobdylan.com/songs/not-dark-yet

  4. アキ says:

    カズ先生、こんばんわ。
    日本は現在、土曜日の深夜であります。

    カズ先生やMasaさんの言う意味は、私にも何となく分かります。
    日本語的な発音の場合と比べて、英語喉発音のモードの場合は、感情を素直に表現することに戸惑いをあまり感じないのかもしれないね。
    英語喉というのは、喉に限らず、発声器官を中心として全身の状態が、日本語を喋る場合とは異なるのですかね?
    もしそうだとすれば、私達のような日本人にとっては、シャイで感情の露出が控えめな日本人モードと、素直に自然に感情表現できる英語ネイティブモードの二重人格的に態度を使い分けできるのが、英語喉の習得なのかもしれませんね。

    日本語のかしこまった喋り方や歌い方は、英語的に言えば頭だけを使って mind だけで話している傾向が強く、英語的な自然な喋り方は、heart から出る気持ちも自然に表現できるのでしょうか?
    日本語の若手人気歌手の歌う内容が説教じみているのは、そのせいかもしれませんね。

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