昨日、テレビJAPANをつけたら(NHKです)、中国がシーンのドラマをやっていて、ある女性が、中国語をしゃべっていた。字幕が日本語で出ていた。その中国語が、あれ?、中国語ってこんなんだったっけ?と思って聞いていたのだが、すぐに分かったのは、それは日本人留学生(の役)の人だったのだ。つまり日本人が中国語をしゃべっていたのだ。
そのドラマには、たくさんの中国人が出てきたのだが、シラブルの一つ一つに耳をやると、繰り返してみて!と言われると繰り返されすことができるように思った。さらに、たまに、出てくる知っている中国語を確実にキャッチすることができた。例えば、パンヨー(友人という意味)とか。これは、シラブルをつかもうとして聞いたおかげだろう(もちろん日本語字幕みながらだけどね)。
最初に述べた日本人の女優さんの中国語は、別にシラブルが間違っていたとは思わなかったんだけど、声が恐ろしいような感じになっていた。外国語だ、何かを加えないと、、、と言う感じの緊張感が声質に影響したのだろうか。そのシーン(ドラマの設定上)のせいではなかったと思う。
NHKの国際番組に出てくるレポーターさんも同じような英語を喋る。基本的にはカタカナなのだが、ドラマチックな感じのするしゃべり方、恐ろしい感じのトーンになっている。カタカナならいっそ、カタカナだけで読んでくれたほうがよいような気がするのだ。外国の言葉なんだから、何か、普通ではない要素を加えないと、、、という思いが、あのおどおどしさ、あるいは、音程の高さにつながっているのだと思う。
何かを加えないと、、、という要素だが、これは、加えても、発音の通じやすさ、聞き取りのできやすさには、関係しないのであるから、それはやめたほうが、楽になる。
何度も書いたが、私は大学でフランス語をとっていたときに、聞き取りおよび発音ができないということで、全く勉強のやる気を失ってしまったことがある。だって、MOT(単語という意味)などという非常に簡単な単語でさえ、全然、ネイティブと違うと感じたから、覚えたところで、通じないし、聞いたところで分からないという現実を前に、全く何もやる気がなくなってしまっていた。
だから、聞ける、言えるというのは、非常に大切なパスポートだと思う。
さて、聞けて言えるようになったら、今度は、書いたり、しゃべったりしなければいけないが、このためには、文法がいる。
現在、普遍文法(特殊な意味で使っている)を構築しているのだが、これは非常に機能的なものである。従来の英文法の体系は、確かに言葉を分類したり、文法論議をしたりするためには、役立つが、しゃべるとなると、なかなか使い勝手が悪い。
使いやすい文法を構築する上で大切にしているのは、ネイティブが使っているのと同じ文法を作るということだが、そのことに成功しているように思う。当然、私が勝手につくっているわけではない。共著者ネイティブの頭にある文法を、本人が観察によって抽出しているのであるが、日本ではこう説明されている、、、という私の知識も結構役に立つときがある。
そうしているうちに、文法って存在するの?って気になってきた。文法が存在しないんじゃないかと感じることがある。たんに音の塊があって、その塊の一つ一つが意味をもっているだけ?みたいな。極端な言い方するとね。
最近、仕事で膨大な量の英語を読んでいるだけど、文法を使って読んでいないような錯覚にとらわれることがある。だって、あまりに膨大なので、流し読みをする。単語をちょこっ、ちょこっと読みながら、意味をとるが、そのときに、その単語が動詞か?名詞か?なんて考えていない。単なる意味の塊だ。
例えばEATは「食べる」という意味。ATEは「食べた」という意味。片方が過去形だと、一方、さがって理解する必要性は?
極端に言えば、全ての単語が名詞に見える今日この頃である。
何を読んでいるかというと、教育の実験の論文を次から次への評価しているのである。
こんなこともあった。学術雑誌によっては、最初のまとめのところに3つまとめがある。英文、スペイン語、フランス語でだ。
読んでいて、どの言語で読んでいるか、意識なく読んでいることがある。あとで、あ、今のスペイン語だったんか?英語だったか?と思う自分がいる。特にスペイン語とフランス語が同じに見えてしまうのだ。学術的な表現が多いためか、英語も同じようだ。
いや、単語レベルだけの問題ではない。
「出してくれー出してくれー」と言語の深層構造が、わめいているように思われる。
もうすぐ出してやるぞおおお。