主観的だといわれればそれまでだが、皆さんはどう思うだろうか?

日本語は圧倒的に表現が多様だ。英語は非常にシンプルでありえる。

もちろん、わざと多様に使うことができるだろう。言語学者と呼ばれる人には、わざと日常的には使わない表現を、机の上でつくってみて、ね?言語って多様で豊富でしょ、、、とみせるひとがたくさんいるが、そういうことではない。

例えば、THIS IS TASTYは、アメリカでもイギリスでもオーストラリアでも同じ表現だ。ISが他の言葉にならない。ところが、日本では地域によってちがうし、また時と場合によっても多様だと感じる。

私の仮説はこれである。日本語は、感情を移入するのが難しい言語である。口発音だから、平たい音しか出しにくいので、悲しみ、楽しさ、うれしさ、色んな気分、、、を音色に託すことが出来ない。例えば、笑いながら日本語を喋るのはやや難しいので、水戸黄門のように、セリフを言い終わってから、わははということになる。

ところが、日本語以外の多くの言語は、喉発音なわけだが、感情がすーっと音色に出る。悲しそうな声、楽しそうな声、、、。

だから、感情のニュアンスを語彙で表す必要性が低い。

よくREALLYという言い方にも5種類あるとか言って、学者と思われる人達が、音程によって意味をとろうとするが、実は、音程以上に、喉発音の音色で人類は色々な感情を表している。

だから、実はREALLYの発音の音程パターン、イントネーションがこうだったら、こういう意味ということではないのだ。

あるいは、MUSTとSHOULDの違いは、こうだ、ああだ、と日本人が定義する。しかし、実は、紙の上で、辞書長で定義できる違うよりも、より大きい度合いで、その単語が発せられたときの、声の音色というのが意味に関係してくるのである。

私はつい最近まで、その声の音色というか、こめられた感情を無視したまま英語を聞いていたように思う。

その結果、例えばだが、アメリカ人が命令形で何かを言うと、意味なく、腹がたつことがあった。しかし、同じ、例えばOPEN THE PAGEでも、音色を聞いていると、それが、かならずしも命令ではないということに気づいた。

一方で、日本人は、やれ、動詞の現形の前にYOUをつけたら、丁寧になるだとか、PLEASEをつけたら、こうなるだとか、そういうことを考えてきたのだが、それは、口発音だからこそ、感情が声に入れにくい言語を持つ話者の発想ではなかろうか?

実際、スペイン人、スウェーデン人などはそのような細かい文法論議をしていない。

日本人とアメリカ人の表情を見ていても、日本人のほうが、圧倒的に、表情が豊かである。例えばだが、私の会社のカフェテリアは、韓国人が経営している。なにかが切れていると、その女性が、苦しそうな表情で(あちゃーって感じ)あやまってくるが、これは日本でも同じだと思う。一方で、アメリカ人の人達は、ぼーとした顔で働いている。

日本人は、お互いがいきいきとした顔をしていないと、納得しないところがある。だから例えば私が行った小学校では、挨拶運動というのがあり、毎日、毎夕、いきいきとして、笑顔で挨拶をしなれけばならなかった。

それは、口発音なので、感情を言葉の音色自体に入れにくい、、、だから、顔の表情でフォローするという習慣なのではないだろうか?

私は自動車で音楽を聴いているときに、長調の曲だと、歌詞を無視して、あ、これは明るい音楽だなと勘違いする。単調の曲だと、歌詞を無視して、あ、これは暗い悲しい音楽だなと勘違いすることがある。

ところが、ジョニーキャッシュなどの音楽を聴いていると、長調なのに、実はとても悲しい歌詞であることがある。あるいは、ボブディランでもそうだ。

長調なので、日本人的な感覚では、明るい歌と勘違いしてしまうが、歌詞は悲しいし、よく聞くと声も悲しいのだ。

代表曲はこれだろうか。ボブディランの歌だ。

http://www.youtube.com/watch?v=RZgBhyU4IvQ

これまで、世界で日本人が理解されにくかったのは、声に感情を込めることができないからではないか?

ネイティブは日本人の英語に抑揚がないと言うとき、それは実は音程のことをいっているのではなくて、感情がないと言っているのではないだろうか????

それを勘違いして、日本人は音程を極端にしたり、強く読んだり弱く読んだりしているのではないか?

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