剣道を去年の秋から初めて、学んだものというか、勝手にこういう方向がいいのじゃないかと思っていることがあります。
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それは、例えば「踏み込み」にしても、自然に私が人間として、持っている歩き方、小走りのときの感じと同じじゃないか??と。
どう考えても、簡単なことで、ただ前に進むだけです。
それが難しいのは、きっと、竹刀を持って相手の面を叩くというプラスアルファのことをすると、体全体のバランスが崩れてしまう。
色々なアドバイスを受けました。それぞれがひとつの方向に向かっているように思います。
右足でストンピングする感じで飛び込み、自然に体重を移行させる。とくに、後者をとりいれました。右足でストンピングしているうちに、右足が痛くなってきたのですが、痛くなっているということは、何か違うんじゃないか?と。
昔は、痛くても、慣れる。固める、、、という形が学習というものだと感じていました。
これは受験勉強のときがそうでした。とにかく、やる、覚える、繰り返す。
あと、剣道で、最近では、左足をさっとひきつけるのが大切だという指導を受けたのです。これは確かにいいと思うのですが、どうも、アキレス腱あたりに負担がかかります。
痛いような方向は、人間の摂理に反抗している、、、だから、それをさけるのがいいのじゃないかと。
道場では、腰から当たるという練習をしているのですが、これがまさに、普通に歩いているときに、もうしていることです。
特別なことではありません。
人間という動物がもっとも自然にしていることを生かしていく形で学んでいくのがいいのじゃないか?
最近、基本の稽古も楽しくなってきました。基本の稽古というと、同じことの繰り返しのようですが、め~~んと打った時に、「楽しいと感じたかどうか?」で判断しています。体の感覚で例えば、手に力がはいりすぎたとしたら、なんか、楽しくないのです。竹刀がかするような当たり方だと、楽しくありません。
よく、考えられるように教育をするといいますが、逆に、もう人間というのは、考える動物として生まれているのではないでしょうか?
なのに、学校というシステムのなかでは、一人の先生が大人数を教えるので、教えるという実践が、テレビでドラマを見ている感じになるのではないでしょうか?1対30人?40人?で可能なことがどうしても強調されます。
例えば、先生1人対生徒40人の英語のクラスだとしたら、英会話は不可能です。
が、覚えるということは可能です。
しかし、例えば、私の広島の友人の直君は、英語は勉強していませんが、発音ができます。発音ができるということは、きっと音としても聞けているということです。
https://www.facebook.com/photo.php?v=215517675230957 (直君との会話の英語版です。)
これは直君に限ったことではありません。中国地方、九州地方、四国の西の出身者は、普通に発声していれば、英語の発音ができるのです。
そのあたりを生かした形で、英語教育でもなんでもやるべきではないでしょうか?
暗記をしないといけないとなると、どうしても、嫌になる人もたくさんいます。
スペルを正確に覚える理由はないのではないでしょうか?
ネイティブは結構、スペルが不得意な人がたくさんいます。
学校の制度があって、先生一人に対して30人、40人の生徒の教室の制度があるので、コントロールの問題ができて、暗記だとかが強調させるのだと思います。
常に「字の世界」の教育になります。字の世界が得意な人もいれば、嫌な人がいます。
面倒くさいことをやめれば、自然に、英語が得意になる人口が増えるのではないでしょうか?
こないだ、小学校1年生になった姪とSKYPEで喋っておりまして、クイズをしていました。ジーナが英語で、例えば、BBQとか言います。そして、姪が、それを何を言ったかを当てます。
録音していたのに、うまくとれていなくて悔しいのですが、、、
YOGURTをちょうど食べていたので、YOGURTとジーナがネイティブ発音で言ったら、姪が、
ヨーグルト!
とうまく当てました。
子供のときは、英語が聞こえているのではないでしょうか?
でも、高校生ぐらいで、同じYOGURTのネイティブ発音を聞くと、「ヨーグー」みたいに空耳現象が起こります。
子供の感性をそのまま育てるような教育がよいのじゃないかと思いました。