英語喉を4年ほど前にDCで直接指導させてもらったかたが(国際機関勤務)、当時、会議などで、準備をしなくてもいいようになったということをおっしゃったことがある。
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日本には、たくさんのいわゆる英語上級者がおられるが、英語がネイティブのように喋れるということではなくて、たくさんの語彙を知っておられ、聞こえた英語の断片に基づいて、相手の言っていることを推測しながら、英語を喋られている人もいるだろう。
実際、私の友人は、まさに、その分からない、聞けないことを武器に会話を豊かにしていると言っていた。
もちろん、最初から英語が全て聞けるなら、そういう工夫はいらないだろうとは言っていたが、人生でもう何十年も英語が聞けないことが当たり前でありながら、英語を教える立場である場合、そういう超オカルト的なる方向に進まざるを得ないのかもしれない。
しかし、英語喉で楽になってもらいたいものだ、、、。
いわゆる英語初級者も中級者も上級者も、究極的には英語が聞けない、できない、、、が、語彙力、文法力で対応している。
いや、それに加え、論理力とか、プレゼンテーション力、ディーベート力という分野も、大人を対象とした日本の英語教育では盛んだ。
しかし、英語が音として100%聞こえる世界にいると、そのようなものはいらないことに気づく。
それ以上に、コミュニケーションとは、自分の思っていること(もう、できあがっていること)を、主張するのは、会話の目的の全部ではないことに気づく。
例えば、会議で、どうやったら、仕事を期限内に終えられるのか、、、という質問があったときに、
かならずしも、答えがないときがある。
答えがないので、相手と、ブレーンストーミングをする、、、。そのときに、的確に、思っていることがないことがある。
会議の目的は、必ずしも、主義主張をすることでなく、とりあえず、喋りながら考える、、、みたいな状況がある。
相手と一緒の次元にたって、COLLECTIVEにブレーンストーミングをする状態。
英語喉以前はそれができなかった。だって、言う前に、言うことが完成しないといけない感じがした。そして、「言いたいこと」を英語の訳すので、頭がいっぱいになる。そして、最大のオチは、頭がいっぱいになりながらも、発言しようとするが、会議で、こちらを向いてもらえず、発言が結局できない、、、という状態。もう一つオチを加えるならば、、、結局、英語喉に出会っていなかったら、今でもそういう状態が続いているわけで、きっと、「文法、語彙、ディベート力、文化を理解する力などが大切です」と皆さんに言っていたかもしれない(これが最大級のオチであろう)。
英語が音としてそもそも聞こえていない場合、「ディベート力」とか、「論理力」とかは魅力的な概念だ。
しかし、実際は、会議やプレゼンテーションにそういう意味で準備をする必要はない。スライドはハンドアウトを準備することはありえるが、仕事で、いつもやっていることを、いまさら、論理力で磨くなどという必要はないのだ。
英語が聞けていえれば、ディベートやプレゼンテーションの練習をする必要がなくなる。
実際、日本語によるコミュニケーションにおいては、そういう面倒なことは考えない。
英語が聞けないから、語彙を覚えようとか、ディベートが大切だとか、色々な方向に言説が拡散しているのだと思う。
英語喉で、英語が聞けると、会話というのは、かならずしも、主張のためにあるのではないなと感じる。
英語が論理の言語だとか、主義主張の言語だというのは、完全に勘違いだ。
最近仕事で、よく状況が分からないけど、まず、ま、話してみよう、、、という余裕がでてきて、楽だ。繰り返しになるが、前は、がちがちに準備して、会議で、主義主張をしようとして、でも、結局、周りが私をそもそも見てくれずに議論がすすむので(透明人間化)、結局、発言できない、、、という悪循環にはまっていたのだろう。
そういう意味で、英語喉なしで、日本でディベートやらプレゼンテーションやらの練習をしても、意味がない。