NHKを見ていたら、私の地元からそれほど離れていない小学校で、ケンダマを教育の過程にとりいれているということを紹介していた。

ケンダマで、集中力をやしなう、、、と。それから先輩が後輩を指導したりするわけだから、物事を説明したりする力も養うことができる、、、と。それはそれで面白いことだと思う。コミュニティーとしての学校をつくることができるだろう。

ところが問題は、そういうアプローチはケンダマだからできるのであって、それを他の分野に当てはめることには無理があるということだ、、、と私は思う。学校を出て、経済システムの中に取り込まれていき、そのなかでケンダマに培った集中力というのが生きるかどうかは全くの未知数である。また頑張ればできる、、、というのは、それはケンダマだからである。例えば、競争率の高い試験など、運も大切だ。金で買うコネや(教員試験など)、行った大学が大切だということも加わるのだから、頑張ればよいということではない。

私の勘だが、ケンダマが教育の世界で受けるとすると、それは、教師と生徒の比率が結構多くても、ケンダマだと、管理するのが可能だからではなかろうか?そもそも(1)できているかどうかが、ぱっと分かる、、、というか見れる、(2)そもそも、もともとセンスがある生徒がいるので、その生徒が他の生徒を指導できる、(3)頑張ればできるんだということを教えやすい。

数多くある教育実践の中で、管理可能なものは取り入れられやすいのではなかろうか。管理できないもの、例えば、エッセイを書いて批評しあったりする、何かを企画してそれをやってみる、、というようなことは教育実践に取り入れられにくいのではなかろうか。

もちろん熱心な先生、家に帰らないことが可能な先生がたまたまいれば、そういう手間のかかる実践が可能だろうが、そうなると、教育機会というものが、その「たまたま」に依存することになる。

体を皆で動かすとか、ケンダマをするとかいうのは、人数が多くても比較的管理がしやすい。視覚化できるからだ。目で見えるのである(知る人ぞ知る、ミシェルフーコーのパノプチコン、、、を思い出す人もいるだろう。それは正しい)。

そういう方向ばかりに教育実践が向いてしまうのは、困るのだが、そういう教育実践を科学的に評価し、本当に効くのか?教育的に好ましい結果が出るのかを、実験によって確認することが大切だと思う。そういう意味で日本の社会科学、行動科学系が評価研究という分野をもっと開拓すべきだろう(今、仕事でそういう仕事をしている。WWCという企画だ)。

さて、評価研究においては、好ましい結果を知りたいわけでから、何が好ましいのか、、、というのを知ることも大切だろうが、これは、非常にオープンマインドで考えていくべきだろう。どうしても、机について、頑張る、、、という方向ばかりに進んでしまいがちだ。(実際に経済システムのなかで仕事を始めると、いかに机で学んだことが役に立たないかは身にしみるものだが)。

もちろん日本という国家として考えて、どうしてもこれはしないとだめだというのがある。例えば漢字を覚えるとか、伝統的な歌を覚えるとか、国家の文学とされているものは目を通し、議論でき、説明できるようにするとか。ただし、大人がやっても役に立つようなことを推進すべきだろう。自分はやらんが、子供には押し付けるというのは、意味がわからん。

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「頑張る」ということが、我々の歴史の中でいつ始まったのか?数々の教育実践が、頑張る、、、ということを目標にしている。しすぎじゃないか?

その「頑張る」ということの歴史性を知ることが急務だと思われる。またしてもミシェルフーコーの歴史研究を思い起こされたかたがいるかもしれないが、ずばりである。

ワシントンDCに住んでいると、どうしてもそういうことを考えてしまいがちになるが、いつかこのことをまとめてお話したい、、、というか議論したい。

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