基本をしっかりと、、というと、日本人は、机について勉強して、基本的な文法項目や語彙を覚えるとか、そういう風に考えがちだが、やはり英語の基本は、会話をすることではないだろうか。さらに「会話」自体の基礎は、相手をよりよく知ったりとか、対話のなかで情報を得て、深い理解をしたりとか、、、。

会話というのは、本当に勉強になる。前にも書いたかもしれないが、スペイン語を会話のなかで学んだ。実際、文法の本とか持っていない。文法を本で学ぶんじゃなくて、会話から抽出したのである。あるとき、スペイン語話者の家に下宿していて、洗濯物をたたんでいると、「たたむ」というときに、ある動詞が出てきた。ちょっとそれがなんだったか覚えていない。で、週末に買い物にスペイン語の家族を連れて行ってあげているとき、自動車でUターンしてくれとスペイン語で言われたのだが、その時の動詞が洗濯ものを「たたむ」という動詞と一緒だった。へーえ、そういえば、イメージ的には同じだなあ、、、と思った(これは以前書いた覚えがある)。

そういう非常に根本的な経験を通じて、人は言葉が使えるようになっていくのではないだろうかと思う。

そういう経験をするには、英語会話ができる環境を探すことではなかろうか。できるだけ自然な環境がよいので、ネイティブの友人ができるばベストではなかろうか。

いや、そういわれても英語がわからんとおっしゃるかもしれないが、どこかから始めないといけない。私だって、大学時代、アメリカ人の隣人の集いに行ったら、ある人が連発していたNO SHITしか聞き取れなかった経験がある。

日本でお会いした人のなかで、英語ができるだけでなくて、英語で社交ができる、心が通じる、笑わすことができる、、人に4人ぐらいあった。これは、語学ということとは独立して、ある才能?を持っておられるのだろうか。全員が全員、英語力が上の上ということではないのだが、楽しい会話ができるのである。

よく発音より内容だという人がいるが、あの2項対立は間違ったものだと思う。発音と内容は、そもそも全く関係ないものだからだ。さらに内容は、個人個人が分野は違うだろうが、誰でも持っているものだ。日本の歴史は知らなくても、日本の漫画ならなんでも知っているという人はいるだろうし、そいういう人のほうが、日本について語らせたら、ものすごく面白いかもしれない。

正しくは、発音VS社交性(あるいは英語VS社交性)ではないかと感じた。発音ができても、あの人は、社交性がないわね、、、という言い方なら、悔しいけど当たっているのかもしれないと思った。(ただし、こういう語り口は、人々が競争している、お互いを常に批評、という感じがするので、好ましくない。)

社交性という言葉ではとらえきれない。英語ができるからというのではなく、心が通じ合えるようなコミュニケーションがとれる、、、ということだ。

準備できるものではない。自然に、その場でわきあがってくるようなものだ。

ちなみに、私は、これは得意なほうではない。

日本の文化は(と言い切ってしまったは語弊があるが)、準備の文化のように思う。例えば、多くの発音本は準備の本だが、準備に異常に時間がかかってしまいそうに思う。

喉パラダイム的には、本を始めたのと同時に、会話、というか社交?コミュニケーションの世界に飛び込んで、言語とか文化のなかで、学びはじめるとういのがよいように思う。

人や、異文化との対話のなかで自分や自分の文化が分かってくることがあるように思う。それは、きっとどんな仕事をするとかそういうことも助けるのではないかな

 、、、と、てっちゃんのBLOGを読んで思った。てっちゃんがなにがやりたいか分からんと書いていたので。

何がやりたいか、、、というのは、結構、分からないものだ。それが普通だ。将来何をしようと悩んでいる人が考えると役に立ちそうなVARIABLEは、

1)自分が何が得意?

2)労働市場は何を求めている?

の二つを捕らえることではなかろうか?そして、(1)と(2)を考えるときに、他の人にはできなくて、自分ができる非常にユニークなことってない?と考えるのはどうか。言い換えると自分の「ニッチ」は何か、どこか?を知ろうとすること?

また今度詳しく書きます。

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