世界というのを考えたとき、色んな文化があり、色んな国家があるわけだから、日本は、色んな国のうちの一つだという感覚があるが、たまに、日本 対 世界、、、じゃないかと思うことがある。もちろん、多くは単に私が日本人なので、単なる勘違いだったりするんだろうが、微妙で分かりにくいことがある。
例えば、漫画の世界を見ると、やはり日本 対 世界、、、って感じで、ダントツに日本が強いと思う。アメリカの本屋には、漫画コーナーがあるが、全部が日本発の漫画である。一冊として、ドイツの漫画とか、ルーマニアの漫画は置いていない。
アメリカのスーパーにいくと、(これは勘違いなのだろうか)、日本の野菜 対 世界って感じがする。だって、菜っ葉がNAPPA(これは中国語である可能性があるかもしれないが)、しいたけがSHIITAKE MASHROOMとか、柿がFUYUだったりする。大根がDAIKONとしておいてある。そしてその他の野菜はなんか普遍的なものばかりで、単にTOMATOだったりPOTATOだったり。外国語っぽい野菜があったとしたら、その殆どが上にあげたような日本名だ(勘違いだろうか、、、)。
口発音 対 喉発音にしても、日本(とあと東アジア諸国) 対 世界ってかんじだ。
このエッセイのタイトルは「なぜ走るのか」だが、これも日本 対 世界かなあ、、、と思う事項だ。例えばだが、私が横断歩道を渡っているとする。そのとき、自動車が待ってくれているとすると、思わず小走りに走ってしまう。
なんか、人が待っていると小走りに走ってしまうのだ。でも、アメリカ人とか、他の文化圏の人々は走らないような気がする。私がわかるかぎりでは。
野球を見に行ったとき、片方のチームのセカンドを日本人の選手が守っていた。守備に回るときに、他の選手は歩いて守備につくんだけど、彼だけが、ものすごい元気でもって、守備の位置まで走っていっていた。
走るというのは、我々の特徴なのだろうか。人を待たせたくないという思いやりのようなものを走ることで、視覚的に示す、、、ということかもしれない。
小学校、中学校のとき、体育や遠足などで、集まるときに、よく先生が嫌ったのは、遅れているのに、のろのろと歩くことだった。遅れているから走って間に合わす、、、という意味以上に、遅れていることを反省しているから、走って誠意を示す、、、という要素が大きかったような気がする。
当時、「10分遅れて、走って集合場所にいく」よりも、「3分おくれて、のろのろと集合場所にいく」ほうが、ビンタの数が多かったように思う。後者は、単に遅れただけじゃなくて、指導者の権威に対する挑戦、、、と捉えられがちだからだろう。ちなみにビンタは決まって公開制で、みんなの前で受けるというのが70年代の地方のスタンダードだった。6人ならんで、集団ビンタというすごい光景もあった。個室で1対1でビンタというのはテレビドラマとか、吉本新喜劇ぐらいでしかないだろう。
話しが全然違う方法に行ってしまったが、「視覚情報」という点で何かが似通っている。
アメリカで火事があると、消防士がかけつけてくるが、消防車から降りて、家屋に突入する間での間に、ゆうゆうと歩いている、、、、そんな場面をよく見るのだが、これはなんとなく
日本 対 世界
の違いのような気がする。勘違いだろうか。 外国に住んでおられるかた、ぜひ情報をお寄せください。
警察官や消防士さんには、せめて小走りで走ってほしい、、、と感じるが、どうだろう。
きっとそれはKAZさんが日本とアメリカしか見てないからですよ。
もっと多くの国に住んでみれば視野が広がると思います。
ちなみにTOMATOは元はイタリア語ですから。
KAZさんの言う世界のスタンダードはアメリカ人、またはアメリカに住む世界各国からの人ですか?
XXXでは人が走りますよ、、、とか、そういう例があったら教えてください(個人攻撃はご勘弁を)。