前回のNITROさんの報告にもあったが、やはり日本人の英語はかなりいけていない。これは語彙とか文法の問題ではなく、完全に、シラブル構造の問題だ。
社会学や教育研究の学会でも、言うことを全部、スライドにして写して、それを読んでいる日本人をこれまでに二人見た。お二人ともアメリカが長い方だ(だから留学したから、PHDをとったからといっても英語には苦労しているはずだ。経験で、仕事のことならば、想像力がたくましくなっているから理解できるのだろう)。そして、観客がそれを聞きながら、言っていることをスライドで読んでいるのである(これでは字幕つきの映画である)。これはこのかたがたの能力の問題ではない。
喉の音を出していないのとシラブルの問題だ。
理論的、そして現実にも、英語のシラブルがボンボンボン的であることを知らずに、聞き取りをすることはほとんど不可能だ。大切なところだけを聞き取る、強く聞こえるところだけを理解する、、、子供だましのような方法が、よく紹介されているが、そんなことで通用するわけがない。
例えば、引用をする前に書いた1段落の文。この文が読まれているとすると、一体どこが大切なのか?どこが強く読まれるのか?その一部の情報を知ったとこで、何が理解できるのか?自分で書いたのだから、大切だと思われるところだけを書く。
XXX、XXX、シラブルがボンボンボン的であるXXX、聞き取りをすることはXXXX不可能だ。大切なところだけを聞き取る、強く聞こえるところだけを理解する、、、という子供だましの方法が、よく紹介されているが、そんなことで通用するわけがない。
XXXで大切でないところを伏字にしていこうとしたが、1文めでやめた。そんなことをしていたら、意味が分からない。
そもそも、強く読まれたかどうかは、文が終わってから、後で振り返って分かるものだ。そんな悠長な理解方法は不可能だ。あとで振り返って、強かったところがわかったところで、その強い単語が聞き取れていなかったどうする?
そもそも、大切なところを強調するというやりかたは、なぜ存在するかというと、発音教科書の存在価値を強めるという、非常に、自己中心的なことが目的なのである。
学習者に強く読ませたり、弱く読ませておけば、納得するからである。我々日本人は、小さいときから、気合をいれろとか、ラジオ体操だとかで、そういうことに反応することに慣れてしまっていると思う。声を出して読む日本語とか、そういうのが好きである。
少人数で大人数をコントロール、指導するための苦肉の策である。
私はこのことに、NHKラジオ講座を聴きながら中学生のレベルで気がついていた。GOODとか、ラジオを通じて言われても、絶対に、聞こえていないじゃん、、とつっこみを入れていた。よく考えれば子供でも分かることだ。
日本人の英語をなんとかするには、英語ができる日本人が活躍する必要がある。現在のところ
英語のできない日本人が企画、予算配分して、英語のできない日本人が教え、これまた英語ができない日本人がそれを批判する、、、。
というわけのわからない混沌とした状況に、現在の日本の英語教育はなってきている。当然、英語のできない日本人の再生産だ。
我が国に必要なのは
英語ができる日本人が企画し、英語ができる日本人が教え、英語ができる日本人が批判する、、、
というカラクリをもった制度である。
とにかく英語ができる日本人が必要なので、皆さん、とにかく英語を使って使いまくって、
YES, I CAN!
と胸を張れるようになっていただきたい。
そのためには、英語を*使う*ことだと思う。例えば、今週、実際に喋ることがあっただろうか?
勉強の量を、どれだけ使ったか?で計るのが良いと思う。
私は大学生のときに、「あ、今日は英語喋ったなあ」とか思って、それなりに計っていた。ある日、あれ、今日喋ってないぞと思ったことがあったのだが、ちょうど用事があったので英語で電話して、「あ、今日も喋ったな」と納得したことがある。
高校生のときは、社会の授業のノートを英語でとっていた。どうせ、教科書を暗記すれば、定期テストでは点がとれるのだから、ノートの正確さはどうでもよかった。だから、うまく書けていたかどうかとかは問題じゃない。使う機会を増やすのが大切だと思う。
使わないと学ばない、、、という点、これが分かりにくい点かもしれないが、とにかく使っていると、分かってくるのである。
単語や熟語を覚えるというのをちょっと保留してみて、で、とにかく喋って見る、使ってみる。そして分からなかった単語や、これが言いたかったのになあという単語を覚えておいてから、覚えたらどうか。
使っているうちに、あれ I AMから始める文でも色々と言えるなあと気づいてくる(これは例)。
もちろん、喉発音と3ビートを知らずに使っても、どうせ聞こえないから意味ないです。
***
キーワード 英語発音 聞き取り 音声学 批判 英語喉 機関銃英語
***
カズ先生、いつもお世話になります。
最近気づいたことですが、英語の発音(ヒヤリングも含めて)なんてものは、喉で正しく母音子音を言えることと、ボンボンボンの1拍3ビートのリズムを言う聞くこと慣れること、それ以外は何も無いのではないでしょうか?
アクセントやイントネーション、これらは言語学者や音声学者による屁理屈の部分が多いのでは? 日本人の英語学習者の多くは、喉発音と3ビートが出来ないから、昔の学者の理論を信じて空しく助けを求めているだけなのでは?
たとえばアクセントの名前動後(同じ単語では名詞のとき前、動詞のとき後の母音にアクセント)とか、文におけるメジャーセンテンスストレス(文の中の最も大切な単語である、文の最後の内容語の母音の部分を最も強く言う)などは、確かにそのように聞こえる場合もありますが、普段の会話においては実際はどうでもよい些細なことに過ぎなかったのでしょうか?
>喉の音を出していないのとシラブルの問題だ。
上川先生が言っていることは結局、上記の2つなんですね。でもそれは日本語と英語の大きな違いなのに気づきにくい。。。
アキさん、ツバメさん
まったく同感です。
結局のところ、シラブルと喉発音をマスターすれば、英語が日本語と同じように、意味的に最小単位のヒラガナ(英語ヒラガナ=シラブル)からなっていることが分かります。その英語ヒラガナがいくつあるかなんていうことはどうでもよいことです(例えば子供の名前をつけるのに、別に新しいのを作ってもよいので、無限に近い可能性がある、、、もちろん言いにくいシラブルになると困るが、、、)。
アクセントがどうのこうのとかいうのは、英語が苦手な日本人の言語学者が言語学の本に書いてあることを読み解くなか、概念を紹介しているということでしょう。ただ、英語自体が苦手なので、実際の現象を相手に研究しにくいのでしょう。だから、強勢なんて大切じゃないですよ!と言っても、実際の音が聞こえないのだから、納得できないのだと思います。
日本人の子供が小さいころにアメリカなどに行くと、すぐに英語ができるようになりますが、それは、子供なので、難しいことを考えませんから、すぐに英語におけるヒラガナが聞こえるのです。
だから、聞こえるから、すぐに言語を学んでしまいます。本に書いてある文法などを見なくても、例えば、IのあとにはAMが来るというのは、聞こえるから分かるのです。
言語学者はこの現象(子供の言語習得)をみて、「言語習得には臨界期がある」というような考え方をします。それは一つには、日本人の英語学習者を見てそう思ったのかもしれません。多くの日本人が大人になってから、言語学を学びに渡米しましたが、英語で、ものすごい苦労をしたわけです。そんなときに、「言語習得には臨界期がある」という考え方に触れて、心をすくわれたのではないでしょうか?
ところが、他の外国人にとっては、それほどの苦労はないわけです。なまりはあっても、通じるし、音が聞こえています。 だからこそ、たかが英語です。
外国人にとってのナマリは、日本における方言のようなものです。
例えば、私が住んでいるアパートの廊下をいつもきれいに掃除してくれているのは、中央アメリカのほうからおそらく、とてつもない苦労をしてやってきたヒスパニックの人達です。私はスペイン語でいつも、彼らと挨拶をしていますが、英語で話すこともありますが、私の言うことは全て分かりますし、私も彼らの言うことが全てわかります。たぶん、映画なども分かると思います。
彼らは、英語学校などに行っていないと思います。
彼らのヒスパニックナマリは、英語のヒスパニック弁と言う感じです。
ところが日本語話者の英語は、まったくそれと違っていて、根本的な構造からして違うのです。
ただし、口発音のまま、シラブルの数だけを正しくすれば、通じることは通じます。ただし、口発音では、複数の子音をつなげることが難しい。BENTO BOXの素材のTAKING A TRAIN TRIPのTRのところで、口発音だと、シラブルがちょっと変形してしまいます(が理解はできないことはないだろう)。
ですから、シラブルだけ直して、英語の日本弁とはなりえますが、それだけだと、印象として、意味不明の日本人、、、となってしまいます(実際、映画を見ていたら、口発音で宇宙の言葉をしゃべっている宇宙人がでてきた)。
ところで、日本語は口発音だということを理解すると、日本語というもの、また日本文化というものにますます愛着が生まれると思います。本当に理解できるので。